前回のつづき。
旧マッケーレブ邸(旧宣教師館)は雑司ヶ谷霊園の近く、同じ台地上に建っている。
月曜、第3日曜等が休館。9:00~16:30開館。入館無料。
説明板は新しい。
東京都指定有形文化財(建造物)
旧マッケーレブ邸(雑司が谷旧宣教師館)
この建物は、明治40年(1907)にアメリカ人宣教師J・M・マッケーレブが建てたものです。マッケーレブは昭和16年(1941)に帰国するまでの34年間この家で生活をしていました。19世紀末のアメリカ郊外住宅に多く用いられたシングル洋式を基調とし、細部のデザインはカーペンターゴシック洋式を用いています。建物の内部は1階、2階ともに3部屋がT字形に配置され、各階3部屋ともに暖炉が組み込まれ、壁の中で煙突につながっています。1階の西北部にポーチ付きの玄関を設け、北側に廊下及び主階段、南側にはサンルームとしても使える広縁があり、東側には補助階段が付いています。19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を有する質素な外国人住宅であり、都内でも数少ない明治期の宣教師館の一つとして貴重です。
平成23年3月建設 東京都教育委員会
豊島区のHPにも詳しく記載されている。
ここだけ、横浜や神戸と同様の雰囲気。
今は周囲が建て込んでいるが、明治の頃は田園地帯だった(屋内展示より)
板壁の白地に緑の窓枠のラインがよく映える。
庭側はガラス面が多い。
事務室の方によれば、今年(2015年)10月から半年ほど、修復(ペンキ塗り替え等)で見学できなくなるそうだ。
玄関の柱上のクロスは「方杖(ほうづえ)」という、カーペンターゴシック様式の意匠とのこと。
玄関脇の張り出し窓。「ベイウィンドウ」といって1階は斜めに取り付けられている。
その上、2階部分は直角に張り出していて変化がつけられている(パンフより)
下の写真、上半分のガラスは波打っている。古いガラス。
入館は無料。私的使用(ブログ掲載含む)写真撮影は、事務室で住所氏名を記入すればOK。広い玄関でスリッパに履き替える。
1階食堂。ピアノで賛美歌が歌われたのだろう。教会はどこにあったのだろう。
前飾りにケヤキ材、内部にアールヌーボー風のタイルが使われた1階居間のマントルピース。
食堂の外側にはガラス面の大きな「広縁」がある。
屋内なのに外にいるような雰囲気。江戸から明治の民家の室内の暗さとは全く対照的。いきなりここに来て「考え方」も変わってしまった人もあっただろう。
台風の時は大変そうだが・・・
「教会事務室」にあったクラヴィコード。当館でピアノ、オルガンの調律をされている方が製作したもので、事務室に申し出れば弾いてみることもできるそうだ。
子ども用(?)の小さなオルガン
広縁から2階に上がる補助階段。
2階の窓も広かった。夜屋内の明かりが点れば、灯台のように目だったのではないか。
カーテンも付けなかったのだろうか。まさにガラス張りに中を見えるようにしていたということか。
2階には周辺地域を含めたジオラマがあった。
以下はいただいたパンフレットより。
ジョン・ムーディ・マッケーレブは、1861年、アメリカのテネシー州ヒックマン郡に生まれました。生後6ヶ月で南北戦争により父を失い、以後多くの苦労を重ねながら勉学に励み、敬虔なクリスチャンの青年に成長しました。27歳の時、ケンタッキー州レキシントンにあるカレッジ・オブ・ザ・バイブルに入学し、ここで先輩宣教師のアズビルと出会い、彼の勧めによって日本伝道を決意したのです。1892年、新婚の妻デラらと日本に渡ったマッケーレブは、築地・神田・小石川と伝道活動を展開、そして1907年に雑司が谷に移り住み、以後この地を拠点に、太平洋戦争直前まで、さまざまな困難に遭いながらも、ピューリタニズムに基づいた宣教活動を続けていったのです。約50年間にわたるマッケーレブの日本での活動は、慈善事業から幼児や青年の教育活動まで及び、多くの人に感銘を与えるものでした。
床材は当時のものだろうか。磨きこまれて綺麗だった。
窓の幾何学模様。中から外を見るとアクセントが効いている。
こちらの方(奥深く建築系に詳しいブログです)によれば、「マッケレーブの帰国後、建物は売り払われ、戦後は長く音響機器メーカー・スタックスの事務所として使われていたが、昭和57年(1982年)にマンション建設計画が発表されるにおよんで保存運動が巻き起こり、豊島区が買い取って整備した後、平成元年(1989年)から一般公開されている。」とのことでした。
周囲の方々の「想い」の賜物でした。
このあと、目白台の方にも足を伸ばしてみました。
つづく。