墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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法明寺 鬼子母神 東京都豊島区雑司ヶ谷

前回のつづき。

自由学園明日館を見た後、徒歩圏内の別の洋館「旧マッケーレブ邸/旧宣教師館」を目指した。

近くに鬼子母神もあるので寄ってみた。 

まずはガードをくぐって明治通りへ向かう。山手線と西武池袋線とのスキマの信号。

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同じ位置から西武池袋線。橋脚修復中か。一編成が停車中だった。

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ガードの先で大規模な解体工事が行われていた。「建築計画のお知らせ」には、西武鉄道ビル建替え計画とあり、敷地面積5,530㎡に地上18階のビルが本年7月着工、平成31年3月に完了予定とあった。

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すぐに明治通りに出て南に歩いていくと、オリナスふくろうの社(旧雑司が谷小学校跡の複合介護施設)で「大鳥神社参道」の表示があったので左折して細道へ。すぐに「法明寺」の山門があった。本堂までのゆるい傾斜の参道には見事な桜並木。

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法明寺本堂。

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お寺のHPに「山来と歴史」がある。鬼子母神を擁する名刹でもあった。

当山は嵯峨天皇の代の弘仁元年(西暦810年)、真言宗の旧跡で威光寺として開創されました。
『東鑑』第1巻に「武蔵国威光寺者。依為源家数代御祈祷所。院主僧増円相承之僧坊寺領。如元被奉免之」云々とあり、その古い歴史を物語っています。
後の正和元年(1312年)、宗祖日蓮聖人のお弟子で中老僧の一人、日源上人が日蓮宗に改宗、威光山法明寺と寺号を改めました。以来、伝灯50世、約700年の歴史を刻んできました。

(中略)
 近年に至り関東大震災で本堂が倒壊、46世一妙院日龍上人が昭和7年に再興しています。しかし昭和20年戦災により全山焼失、47世一味院日厚上人が昭和34年に本堂を再建、さらに昭和37年客殿庫裡を竣工しました。
昭和43年現山主一厚院日悠上人を中心に、鐘楼ならびに山門の復興も完了、ほぼ寺内の偉容を旧に復しました。


 

本堂から山門。

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当寺の塔頭のひとつ観静院に弁財天があり、鬼子母神にある大黒天も含め「雑司ヶ谷七福神」をめぐれるようになっていた。

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法明寺のそばには東京音楽大学の巨大な建物(ホール)

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そこから50mほどで鬼子母神堂(鬼の漢字には第一画目の点がない)

多くの参拝客で賑わっていた。

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以下はお寺のHPより。鬼子母神 由来と歴史

鬼子母神はインドで訶梨帝母(カリテイモ)とよばれ、王舎城(オウシャジョウ)の夜叉神の娘で、嫁して多くの子供を産みました。
しかしその性質は暴虐この上なく、近隣の幼児をとって食べるので、人々から恐れ憎まれました。
お釈迦様は、その過ちから帝母を救うことを考えられ、その末の子を隠してしまいました。その時の帝母の嘆き悲しむ様は限りなく、お釈迦様は、
「千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん」と戒めました。
そこで帝母ははじめて今までの過ちを悟り、お釈迦様に帰依し、その後安産・子育の神となることを誓い、人々に尊崇されるようになったとされています。

また、現在の本殿は寛文4年(1664年)に加賀藩主前田利常公の息女の寄進で建立の後、規模拡張されたもので、昭和35年に東京都有形文化財指定、昭和51年~54年に解体復元修理が行われたそうだ。

 

Wikipediaでは「江戸三大鬼子母神」とあった。

鬼子母神は、法華経の守護神として日蓮宗・法華宗の寺院で祀られることが多く、「恐れ入谷の鬼子母神」で知られる、東京都台東区入谷の鬼子母神(真源寺)、東京都豊島区雑司が谷の法明寺鬼子母神堂、千葉県市川市の遠寿院(法華経寺塔頭)の鬼子母神が有名である(江戸三大鬼子母神)

縁日は毎月8の付く日(8日,18日,28日)である。また、お会式に併せて大祭を行う寺もある。なお、「鬼子母神」の「鬼」の表記について、寺院によっては、第一画目の点がない字を用いる場合がある。これは、鬼子母神が釈尊に諭されて改心した結果、角が外れたためである。

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自分は鬼子母神といえば「恐れ入谷の鬼子母神」で入谷にあるものと思っていた。

入谷鬼子母神 台東区ホームページによれば「恐れ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺・・・」の言い回しは江戸時代の文人、大田蜀山人(大田 南畝:おおたなんぽ1749~1823、天明期を代表する文人・狂歌師、御家人)作といわれるそうだ。

HPの写真を見る限り、雑司ヶ谷より規模が小さいがコピーの力が200年近く効いている?

Wikipediaによれば蜀山人には、「神ならば 出雲の国に行くべきに 目白で開帳 やぼのてんじん」と詠み、「野暮天」「野暮」の語を生んだとの逸話もあるそうだ。

 

境内には公孫樹の御神木もあった。

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東京都指定天然記念物となっている。

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説明板の後半部分を抜粋。

樹高30m、幹周8mの雄株で、都内のイチョウでは、麻布善福寺のイチョウに次ぐ巨樹であり、樹勢は盛んである。応永年間(1394~1428)に僧日宥が植えたと伝えられている。古来「子授け銀杏」と言われ、戸張苗堅の「櫨楓」によると、婦人がこのイチョウを抱く光景がみられ、注連縄を張るようになったのは、文政年間(1818~29)の頃という。平成2年12月27日建設 東京都教育委員会

 

イチョウの横に武芳稲荷堂があるが、赤い鳥居が並ぶ細い参拝道がイチョウを取り囲むように巡っていた。

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鳥居の合間から見上げた大銀杏。黄葉の秋に見てみたい。

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根本が広がって地面をしっかり捉えていた。長生きしそう。

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正面側の境内入口。

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こちらには光あふれる小公園(雑司が谷みみずく公園)があった。

公園の案内板によれば、旧宣教師館は雑司ヶ谷墓地へ向かう方向。

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小公園に面した「関洋装店」とある建物。

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裏(表?)に回ると「学問所 雑司寮 明哲院」の看板が掲げられ、手書きの講義予定表もあった。

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そこは地下鉄・都の鬼子母神前駅から続く「大門けやき並木」に面していた。

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 つづく。