墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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東京国立近代美術館工芸館(旧近衛師団司令部庁舎) 重要文化財 東京都千代田区北の丸公園

近代美術館本館で「高松次郎ミステリーズ」を見たあとに、工芸館のほうにも寄った。

所蔵品展「近代工芸案内 ー名品選による日本の美ー」が2月15日まで開催中だった。当館のみだと観覧料210円。

 

レンガ造りの堂々とした建物だが、首都高の橋を渡らないと正面全景が撮れない。

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どうしても無粋なETC読み取り装置が入ってしまう。ETCが入らないように近づくと自分のカメラでは部分しか収まらない。

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下の写真の右端が工芸館。首都高の本線とランプがぎりぎり建物をかすめて掘り下げられている。正面が千鳥が淵。

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レンガの色の地に白いアクセントが映えて優雅な印象。

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以下は美術館サイトから。

工芸館の建物は、旧近衛師団司令部庁舎を保存活用したものです。この建物は、明治43(1910)年3月、陸軍技師田村鎮(やすし)の設計により、近衛師団司令部庁舎として建築されました。2階建煉瓦造で、正面中央の玄関部に小さな八角形の塔屋をのせ、両翼部に張り出しがある簡素なゴシック様式の建物です。丸の内や霞ヶ関の明治洋風煉瓦造の建物が急速に消滅していくなかで、官庁建築の旧規をよく残しており、日本人技術者が設計した現存する数少ない遺構として重要な文化財です。

昭和47(1972)年10月に外壁、玄関および階段ホールが重要文化財に指定されました。翌年から保存活用工事が行われ、内側に新たに鉄筋コンクリートの構造体を設け、煉瓦壁体はあたかも外装タイルのように扱っています。屋根は震災後の桟瓦葺から建設当初のスレート葺きに復元されました。中央の階段回りとホールの部分は、当時の姿を残しているといわれています。東側に設置された和室も含め展示室は、東京国立近代美術館本館の設計者である谷口吉郎によって設計されました。

建物の紹介

 

中央入口から階段を上って入館する。

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屋内階段の上部の照明器具。軍の施設のようには感じられない。

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階段の手すり。オリジナルであれば、第13代師団長(大正4~5年)だった秋山好古や、昭和18年に留守近衛第2師団長であった栗林忠道も触れていたかも?(勝手な想像です)

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2階中央から皇居側、先ほど建物の写真をとった歩道橋が見える。もう少し橋の幅を広げるか橋の中央部を高くするか等で、外から建物を見やすくできればありがたいと思いました。

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また、素晴らしい建物、歴史の舞台となった建物であるので、ガイドツアーがあれば多くの方が参加するのでは、と思いました。

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近衛師団については自分は不勉強でしたので、Wikipediaから抜粋させていただきます。

・概要より

近衛師団は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。一般師団とは異なり、最精鋭かつ最古参の部隊(軍隊)として天皇と皇居を警衛する「禁闕守護」(きんけつしゅご)の責を果たし、また儀仗部隊として「鳳輦供奉」(ほうれんぐぶ)の任にもあたった。(後略)

・成立前史より

江戸幕府を倒し明治新政府が樹立された当初、政府は独自の軍隊を保有しておらず、軍事的には薩摩藩、長州藩、土佐藩(薩長土)に依存する脆弱な体制であった。そのため1871年(明治4年)、政府は「天皇の警護」を名目に薩長土の3藩から約1万人の献兵を受け、政府直属の軍隊である御親兵を創設し、この軍事力を背景に廃藩置県を断行した。この御親兵は、1872年(明治5年)に近衛都督西郷隆盛を中心とした近衛兵として改組され、「天皇および宮城(皇居)の守護」という任務が課せられた。

1873年(明治6年)に徴兵令が制定され鎮台兵として配備されると、近衛兵は鎮台兵の軍事訓練も担うこととなった。(中略)

1877年(明治10年)の西南戦争では、鍋田川の戦い、田原坂の戦い、城山の戦いに従軍する。翌1878年(明治11年)には近衛砲兵大隊が恩賞への不平から武装反乱する竹橋事件が起こった。

1891年(明治24年)、鎮台が廃止され師団に替わることとなり、山縣有朋によって近衛兵は近衛師団へ改称され、陸軍大臣管轄の下、平時は隷下の各中隊が輪番制で天皇や宮城の警護などに当たり、戦時には野戦師団のひとつとして出征し戦闘に参加することとなった。師団編制となった近衛師団は、数個近衛歩兵連隊を基幹として、それに騎兵・砲兵・工兵・輜重兵などの特科部隊が統合されていた。

その後、近衛師団は第二次世界大戦終結による帝国陸軍の解散まで各戦争・事変・紛争に従軍し、出征中の近衛師団に代わって天皇及び宮城の警護に当たった近衛師団は留守近衛師団とされた。初期は留守近衛連隊が、のちには近衛歩兵第6連隊などがそれにあたる。(後略)

近衛師団 - Wikipedia