墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

画像が出ない場合はPCで、クロームOSでお試しください。

江戸川放水路・分岐 千葉県市川市

1/2夜は、地元の神社に家族で初詣。が、カメラを家に置いたままで写真を撮れなかったこともあって(?)、1/3は午後から行徳の寺社を一人ではしごした。

 

江戸川スポーツランド(都立篠崎高の南隣)までバスに乗り、そこから東西線行徳駅まで歩いた。原木中山の左から右下に太く流れるのが江戸川放水路。

 
スポーツランドの南東側は旧江戸川に面している。数分歩くと、旧江戸川と江戸川放水路の分岐点に出る。

下の写真正面が分岐。奥が江戸川上流、左が旧江戸川、右が江戸川(放水路)

f:id:massneko:20150103145009j:plain

 

以下はWikipediaより

現在の江戸川の最下流部は、放水路として建設され、行徳可動堰(江戸川河口堰)を通り、千葉県市川市で東京湾に注ぐ。1960年の河川法改正に伴い、この区間の名称が江戸川放水路から江戸川になったものの、依然として江戸川放水路の呼び名が使われることが多い。

現在でも天然うなぎが捕れるほか、江戸川の河口付近は、三番瀬など東京湾でも数少ない干潟が広がる地域でもあり、トビハゼの北限生息地となっているほか、汽水性の希少なトンボであるヒヌマイトトンボの生息地のひとつでもある。

 

江戸川放水路は明治43年(1910年)の大洪水の翌年に改修計画が作られ、大正5年(1916年)に着工、大正8年(1919年)に完成した。

 

大正6年「船橋」 造成中の江戸川放水路。

f:id:massneko:20150104102230j:plain

 

明治13年「市川駅・逆井村・八幡町・船橋駅」 放水路が出来る前。

江戸川は海に出る直前で大きく東に曲がり、地図にある妙見島を通って浦安で東京湾に出ていた。成田へ向かう行徳の街道が寸断される前の姿。

市川塩浜は、まさに「塩浜」

f:id:massneko:20150104102530j:plain

 

旧江戸川に続く江戸川閘門。船を通す方式はパナマ運河と同じ。

市川市|行徳可動堰と江戸川水閘門

f:id:massneko:20150103144758j:plain

 

江戸川水門上から、旧江戸川下流方向。この河口にTDLがある。

f:id:massneko:20150103144933j:plain

 

江戸川水門の建物。上記閘門と合わせて江戸川水閘門と呼ばれ昭和18年に完成。

f:id:massneko:20150103145025j:plain

 

正面は掘削した江戸川。右が行徳可動堰。三ヶ日から野球の練習に励む子供達。

自分の影も写った。

f:id:massneko:20150103145149j:plain

 

新行徳橋を渡ってみた。右が下流。

f:id:massneko:20150103145750j:plain

 

流れのない水面で鳥たちが休んでいた。

f:id:massneko:20150103145835j:plain

 

橋から下流方向。停泊している船が多い。3連のアーチは東西線の鉄橋。

こんなに広く掘ってしまったとは。

f:id:massneko:20150103150036j:plain

 

対岸はまさにこの場所を外環道が通るので、大工事中。

f:id:massneko:20150103150231j:plain

 

一旦橋を降りて北側の歩道へ回る。

f:id:massneko:20150103150342j:plain

 

葦原に放置されたボート。

f:id:massneko:20150103150540j:plain

 

新行徳橋の北に並行する行徳可動堰(行徳橋) 

普段は江戸川放水路側への流れは閉じており、ここから河口までの3.5kmほどは海の環境(東京湾の入江)になっているそうだ(下記サイトより)

市立市川自然博物館 自然博物館だより139号

f:id:massneko:20150103150700j:plain

釣り船が多かった理由がわかった。 

 

東京スカイツリーと連凧。

f:id:massneko:20150103150439j:plain

 

うっすらと富士山も。

f:id:massneko:20150103150512j:plain

 

行徳の寺社めぐりは次回から。

 

※地図は以前に市立市川歴史博物館で購入した「行徳レポート その(1)~年表・地図集」から転載した。

f:id:massneko:20150104102622j:plain