墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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常陸太田・鯨ヶ丘の商店街(後編) ~まるごと温存されている昭和の街並み

前回のつづき。

商店街の一角にあった「太田村全図(1850年)」と鯨ヶ岡(丘)の由来

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鯨ヶ岡(丘)の由来

景行天皇の時代(4世紀頃)、日本武尊が東夷征伐のためにこの地を巡った際、丘陵の起伏があたかも鯨が洋上に浮遊している状に似ているので「久自」と名付けた。

※「久自」変じて「久慈」となり「鯨ヶ岡」となった。俗語に「鯨」を「久慈理」と伝う。とある。 ~「太田盛衰記」より

 「奥久慈」というエリア名は、ここ「鯨ヶ丘=久慈」の奥ということなのだろうか。


 

それにしても、丘陵を鯨に例えたということは「東夷征伐」を行った人々は「海の民」だったという証左なのでは。

 

と思ったら、アイヌ語で「クジ」は「くびれた地形=砂丘や小丘などの長くなった高まった場所」という意味があるそうだ(by ヤフー知恵袋

 

以下は絵地図の説明板のつづき

このように古い歴史を持つ鯨ヶ丘は、平安時代末から470年にわたってこの地方を治めていた佐竹氏の居城が築かれた本市の伝統的な中心市街地であり、古くから物産の集散地として商業や文化が栄えたところであります。

左の絵地図を見ていると、そんな先人達の鯨ヶ丘物語が、時を越えて聞こえてくるようです。めまぐるしい時の流れの中にいる現代の私達には、ゆったりとした時を重ねていた時代を、折節考えることも大切なのかもしれません。鯨ヶ丘商店会

 

 太田七坂のひとつ「塙坂」 逆S字にゆるりとカーブしていく。

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塙坂を下から見上げる。立派な石垣が連続する。

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坂上に戻って商店街のつづき。紙と文具の「紙茂商店」 本名なのだろうか。

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カメブ呉服店。看板は真新しい。

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くじら焼きの店、くじら屋。絵地図はこの店の前にあった。

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 土曜の昼の商店街。

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 看板だけ残っている店舗。

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東に一直線に下る「板谷坂(ばんやざか)」太田七坂のひとつ。

かつては「眉見千石」と言われた眺めの良い坂。佐竹氏の時代の「番屋」から「板谷」となったと言われる。

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細いが眺めの良さそうな家。

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城郭のような石垣。

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「なべや」 ”ちまきも美味しいけれど団子もかりんとうもいける”そうだ。

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面白い形の門がある法然寺。

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法然寺本堂。ここも崖際に立地し、墓地からの眺めがよい。

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商店街の南端の小公園。常陸太田駅から700m程。小さな円墳のような土盛りがあったが、鯨をモチーフにしたもののようだった。

平安末期から佐竹氏が開発した台地だが、その前は古墳があったに違いないと勝手に想像する。

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公園にある「鯨ヶ丘散策図」

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上の地図にあった「根道」を探してみた。

根道(太田西道) 鯨ヶ丘の台地西側を通る道で、細い路地のような道が続いています。徳川光圀も歩いた道といわれています。

 

 細道を探しながら西への坂道を下る。右は現役の「古宿医院」

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左手には「水神宮」があった。鯨ヶ丘では湧水が多く湧いていた。ここは「下井」という「太田七井」のひとつで、昔どおり残っている七井はここだけだそうだ。

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下井のそばの由緒ありそうな家。

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細い路地に入ってみた。

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途中で公園に出た。

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崖に沿ってもう一段上に細道があった。こちらが根道か?

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廃屋の横を通ると、そこで道が終わっていた。最初の道が根道だったか。

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斜面には何本も石段がついていた。

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石段上から西側の眺め。

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商店街に戻って北へ歩くと、すぐに杉本坂。太田七坂で一番急とのこと。右手の道は杉本山遍照寺に向かう。

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和田薬局。よく見ると、2階の板壁は看板。

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一番右は「猫イラズ」 左から4つ目は「浅田飴

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 橘文化服装学院。防犯上の課題もあるだろうが、営業の終わった店でもシャッターがなければ歩いていて楽しい。

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今がかきいれ時(?)の助川印刷。

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ともかく個性的な店が多く、短時間で見て回るのは限界があった。撮りそびれた店舗もたくさんある。昔ながらの店舗はこの日歩いた北端からさらに北に500mほど、馬場八幡宮の方まで続いていた。

 

狭い台地で、広い道がなく、車で来るような店舗がつくれないので、昭和の雰囲気が温存されたのではないでしょうか。

ギアナ高地」に例えると遺物のように聞こえてしまうかも知れませんが、それほどの奇跡ではないかと勝手に盛り上がりました。

 

こちらの写真館には本物の昭和が溢れています。


 

※追記

久慈の名前由来については、Wikipedia久慈川の項にも下記のようにありました。

久慈郡を流れることから付いたものである。久慈という地名は、奈良時代の『常陸国風土記』の記述に「古老のいへらく、郡より南近くに小さき丘あり。かたち、鯨鯢に似たり。倭武の天皇、よりて久慈と名づけたまひき」とあるのに由来するといわれている。