墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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「古代国家形成期の東京低地 -3・4世紀の東京低地の様相を探るー」 葛飾区郷土と天文の博物館 平成26年度地域史フォーラム 地域の歴史を求めて

12/14日曜日の9:30から16:30まで、表記フォーラムを聴講した。

旧葛飾郡地域及び東京低地周辺における歴史の認識を深めることを目的とする区民参加型の公開講座。

古代国家が形成される3~4世紀の遺跡は、葛飾区をはじめ東京低地にも確認されており、それらの遺跡の様相を検討し、古代国家とこの地域とのかかわりを探る、というものだった。

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9時開場に合わせて、9時前に京成線お花茶屋駅へ。日曜朝の閑散とした商店街だったが総菜屋さんは開いていて、1個65円のおにぎりを買えた。

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プログラムは下記の通り。

・総論 3・4世紀の東国と古代王権 熊野正也氏(葛飾区郷土と天文の博物館運営協議会会長)

・報告1 東京低地の様相 谷口栄氏(葛飾区郷土と天文の博物館学芸員)

・報告2 相模と武蔵地域の様相 西川修一氏(日本考古学教会会員)

・報告3 上総・下総地域の様相 白井久美子氏(千葉県教育振興財団文化財センター)

・報告4 東京低地の「十王台式」から探る3世紀の動向 鈴木正博氏(NPO法人野外調査研究所)

・全体討議

 

冒頭の挨拶では、京成西船駅の説明板(前回エントリ)にあったように、葛飾区が位置する「東京低地」は、古代は下総国、近世から武蔵国になった境界の場所であり、一方で昔から遺跡があることがわかっていて発掘・研究も進んでいた低地両側の台地上と比べ、東京都側からみると「元は下総国」、下総側から見ると「今は東京都」と、どちらの側からも研究の触手が伸びない陽の当たらないエリアだったと触れられた。

しかしここ10年くらい低地の遺構の研究が進み、進むにつれてこの場所が、河川交通と深く関わる「関東エリアの扇の要」のような場所であったことがわかってきて、「ホットな場所」になりつつあるとのこと。

 

5人の方のお話はいずれもとても興味深い内容で、自分にとって大変有意義な一日となった。

 

 

熊野先生のお話は、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけての、わかりやすい概論だった。

水稲耕作がはじまって、「生産」による経済社会がはじまり、水資源・水路の確保から争いも起こるようになり統一へと進んだ結果、ヤマト王権の母体は2世紀後半か末に生まれて3世紀後半に確立し、築造に大変な労力を伴う大きな古墳ができるようになった。

さらに、東国との関係が持たれた理由(鉄?)や、東国へ来たルート(天竜川→諏訪→東山道→太田(群馬県)→利根川下流としての東京低地、という仮説について言及された。

 

谷口先生からは、東京低地の遺跡についての詳しい話。

・東京低地は、荒川や、かつては東京湾に流れ込んでいた利根川・渡良瀬川の巨大河口地帯で、縄文海進以降に自然堤防や砂州などの微高地が出来て集落が形成されるようになるのは弥生時代終末期と考えられる。

・東京低地で出土する土器は、同時期の台地上と比べ外来系(特に東海系、他にも北陸系や畿内系)が多く、低地の陸化でそれまで台地上に暮らしていた人が低地に降りてきたという単純なストーリーにはならない。

・しかも東海系等の土器は諸河川の上流部にも見られることから、内陸部と臨海部との河川を通じた相互交流があったことが推測される。

・また、同じ東京低地でも隅田川を挟んだ東側と西側では土器に違いがあり、東側のみで茨城の十王台式土器や千葉の印旛手賀沼系土器が、西側のみで埼玉県域系土器が(わずかな例外を除き)分布するので、律令時代に隅田川を境に武蔵を下総を分かつ素地は、弥生時代終末から古墳時代前期まで遡ることができるとのこと。

 

 西川先生からは、歴史観に及ぶようなダイナミックなお話が。

・相模湾岸では土器の傾向から、相模川の西では東遠江や駿河など東海東部から、東ではより遠い東三河や西遠江など東海西部からの影響(そこから人が移住した)と考えられるが、それらの動きはすでに弥生時代後期から起こっていた。

・従来の教科書(特に小学生社会)では、巨大古墳を築造できるほどの強大になったヤマト王権が力で各地を支配していったようなイメージが強調されすぎているのではないか。

・実際は、地域ごとに社会が発展し、地域内で入手できない物資が地域間で交流されるようになって物資の外部依存が拡大すると地域の調整役としてリーダーが生まれ、リーダー同士のネットワークが広範化・強化されたのでは、という仮説が提示された。

 

白井先生からは、千葉県市原市の神門古墳群やちはら台の草刈遺跡、柏の戸張一番割遺跡や呼塚遺跡、千葉ニュータウンの遺跡や木更津の高部30号・32号墳などの、豊富な事例とともに、千葉エリアにおけるヤマト王権の前進基地的な側面(神門古墳群)と、地域の伝統が維持された側面(弥生時代以来の方形の墳丘の多さ)との両面があったことが紹介された。

また、祭りの鳴り物として使われたであろう「小銅鐸」は全国で49点出土しているが、房総に9点が集中するという話(それ以北には渡良瀬川を遡った小山市に1点・東博蔵)も。

白井氏からは個別に、市川の弘法寺(ぐほうじ)古墳から石室が見つかったという貴重な情報も伺えた。崩落を防ぐ工事も始まるそうだ(よかったです)

 

鈴木先生からは、東京低地の葛西城址にて出土した十王台式土器の小片が、地域間交流を示すものではなく、拡散的俗人関係(嫁入り等に限られた属人関係で集団入植による定着ではない)では、との意見が提示された。

(十王台式土器の文様や材質などに非常に特化した専門的な内容で、残念ながらお話についていくことができませんでした…)

なお、十王台式土器とは、那珂川・久慈川流域及び茨城県北の海沿いの地域を中心に分布する、弥生時代後期の土器のこと。

 

講師のみなさま、当方の認識の誤り聞き違いもあると思いますので、もしこのブログを見る機会がありましたら、ご指摘くだされば幸いです。(コメント欄、非公開にもできます)

また準備いただいた博物館の関係の方々およびボランティアのみなさま、貴重な機会を設けていただき、誠にありがとうございました。