前回のつづき。
旧朝倉邸の門と道を挟んだ一角にあるお地蔵様。台座には、「右大山道、南無阿弥陀仏、左祐天寺道」と刻んである。右は「目切坂」になる。
上記を右にすぐのところは「キングスホーム代官山」で、入口右手に目黒元富士跡の説明板がある。
マンションの敷地内にはかつて高さ12mの富士塚 があった。文化9年(1812)に上目黒の富士講の人々が築き、文政2年(1819)に別所坂上(中目黒2-1)に新しく富士塚が築かれるとそれを「新富士」といい、こちらの富士塚を「元富士」と呼ぶようになった。両富士塚は歌川広重の「名所江戸百景」に「目黒元不二」「目黒新富士」として描かれている。元富士は明治以降に取り壊され、石祠や講の碑は大橋の氷川神社(大橋2-16-21)へ移された(説明板より)
そのまま右手に「目切坂」を下りていく。
坂の右手は、旧朝倉邸の庭園になる。
途中で振り返ったところ。ゆるくカーブしながら下る気持ちのよい坂。
途中左手に公園のような緑の広場が現れた。
1990年代まではアパート4棟が建っていたようだ。下記の「写真」にチェックを入れると見える(スマホでは見られない)
今はフェンス囲いがあって中には入れない。都と区の管理地。
目切坂から左に折れて、緑地の間を突っ切るフェンス道を進む。
公園化できれば素晴らしい場所。広重の錦絵で花見をしていた場所ではないか。
そのまま降りていくと、サーフショップのお店に入場するための行列ができていた。
目切坂の起点へとまわる。
左の標柱のアップ。
石臼の目を切る職人が住んでいたからという説が紹介されている。旧朝倉邸の庭にも石臼があったし、丘の上に通っていた三田用水には341本の水車があったとのことなので、石臼の目を切るという特化した職も成り立ったのだろう。
江戸近郊農家の歴史|ヒルサイドテラスオーナーズサイト (再掲)
めぐろ風景(MEGURO55)の説明板もあった。
再び坂を上り、代官山の駅へ戻った。途中、歩道橋から見た、大掛かりな建設現場。
そのまま駅にはいらずに、左手に続く坂道を下ってみた。
坂を下る途中で歩道橋をくぐり、別の歩道橋を上って振り返ったところ。道路と線路に挟まれた建物があった。
上記写真の左に写っている、駅から続く長い歩道(橋)
もと来た道に戻って線路沿いを歩く。左は旧同潤会アパート跡地に建つ「ザ・タワー」という高層マンション。代官山駅と歩道橋が直結しているが、北側は東横線線路まで広い坂道が開けている。
上記の写真の背中側で道が急に狭くなる。そこに「新坂橋」という、今にも埋もれそうな橋の名残りがあった。
調べてみたら三田用水分水にかかる、大正時代の橋のようだ。
↑思わず引き込まれてしまうブログでした。
上記の写真、新坂橋の先、かつての東横線が横切っていた場所の渋谷駅方向。
フェンスの上から撮った写真。現在の東横線はここから地下にはいっている。
ここはどうなるのだろう。
東横線の先にも坂が続いていた。趣のある切り通し。
切り通しの先を左折すると、広い更地と洋館のような建物があった。
ストリートビューで撮った写真 「ぶらり地元旅」 #地元発見伝
正面、角から見た建物が今はすっかり無くなっている。グーグルマップには「代官山フラット」と表示されていた。
トラックの左上に見える、蔦に覆われた建物が、上の写真の赤い洋館だと思われる。
こちらには落ち着けるタルト屋さんとして紹介されていた。行ってみたかった。
この界隈、アップダウンが多く歩いていて面白いところだった。
そのまま劇団ひまわりの横を通って山手線の高架がある場所まで降り、恵比寿駅から帰った。