前回のつづき。
二子塚古墳の後、駅に戻る途中にある群馬八幡神社へ参拝した。
八幡八幡宮(やわたはちまんぐう)とか、「やわたのはちまんさま」と呼ばれているそうだ。
呼び方がぐるぐる回っている感があるが、そもそもの「八幡」の読み方についてはgooがわかりやすかった。
下記は高崎市のサイトより(少し短縮)
957年に京都の石清水八幡宮を勘請(かんじょう)
一国一社の八幡宮として古くから広く尊崇され、特に源氏は、頼義・義家(八幡太郎)の奥州征伐で八幡八幡宮に祈願、戦勝したので社殿を改築したといわれる。
頼朝は鎌倉に幕府を開くと神田百町を寄進し、全社殿の改築、参道杉並木の開さく、遠鳥居の建立などを行った。
建物は神仏混淆式で、もと本地堂の天満宮、もと仁王門の神門、鐘楼(しょうろう)、拝殿内の護摩堂(ごまどう)など、仏殿様式の建物も残存する。
権現造の本殿は1757年築造。境内北西隅にある地主稲荷社が元宮。
拝殿の天井にはカラフルな絵があったようだが、算額(後述)らしきものは見つけられなかった。
参拝後に本殿を一回りした。
彫り物が重厚。雨が激しくなってきた。
「八幡八幡宮の算額」は県指定の重要文化財だった。
「算額は、主に江戸時代和算家が自分の考えた数学の問題と答えなどを書いて寺社に奉納したものである。和算は江戸時代に発達した日本独自の数学で関孝和がそのさきがけとなった。上野国への普及は江戸時代中期以降で、優れた和算家を輩出した」
八幡宮には、小野栄重、巌井重遠、中曽根真吾の、それぞれ門人が奉納した算額があるそうだ。神社が競い合いの場だったのか・・・
どんな問題か見たかった。
7年前に奉納された「現代の算額」
拝殿の龍頭。
拝殿から神門。神社は台地上の先端に位置している。
神門をくぐると石段。石段の下にもうひとつの神門がある。
遠くに大鳥居も見えた。鳥居のあるあたりが中山道で並行する碓氷川の対岸には達磨で有名な少林寺(黄檗宗少林山達磨寺)がある。
結構 急な石段。
台地下の神門から大鳥居方向。
参道から見た神門。
上記の写真をとったあたりに「無人販売」店があった。袋にギシギシにはいったほうれん草、里芋、インゲン豆を買った。
群馬八幡駅に戻ると、高崎行きの電車は50分後だった。一日数本のくるりんバス200円均一が20分後に来たので、電車と同じくらいの到着になるだろうと思って乗ってみた。
すると、観音塚資料館まで戻り、八幡八幡神社の参道・大鳥居を通って少林寺入口へ、鼻高展望花の丘という山の上まで回ったので1時間以上かかり、高崎から乗ろうと思っていた電車(群馬総社方面)を逃し、高崎駅で50分待ちになってしまった。200円で一時間の小旅行はお得ではあるが(しかもかなりの間、乗客一人だけ)、雨中窓も曇ってよく見えなかった・・・