墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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浦添グスク・ようどれ館 沖縄県浦添市

嘉数高台公園の展望台から見えた場所をカーナビで見たら「浦添城跡」とあった。

城の記号を指であてて目指したが墓地の中に出てしまい、迷っていたら丘の南側に上り口があった。博物館があったのでまず立ち寄った。

 

・浦添市グスク・ようどれ館  大人100円 AM9時~PM5時

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沖縄、琉球王国の歴史は、ほとんど知らなかったので、 ビデオ映像によるわかりやすい歴史解説がありがたかった。ネット上で簡単な解説はないかと思ったら、便利なものがあった。

歴史|沖縄のここがポイント?歴史・文化?|沖縄修学旅行ナビ

 

下記は上記サイトの「歴史ー琉球王国」の項より。

「12世紀に入ると按司(アジ)と呼ばれる有力なリーダーが現れ、グスク(城)を建てて勢力を争いました。3つの勢力が沖縄島を分割支配する三山時代(さんざんじだい)を経て、1429年に琉球王国が成立すると、アジア諸国との外交・貿易により黄金時代を迎えます。しかし1609年に薩摩藩の武力侵攻を受けた琉球は、以後その支配下に置かれることになります。諸国の影響を色濃く受けた華麗な文化が発展するのはちょうどこの時期です」

 

館内の展示パネル

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 説明書きの転載

浦添グスクは、琉球国中山の初期の王城です。その歴史は13世紀頃(英祖王代)から始まり、14世紀の察度(さっと)王代に最盛期を迎えます。察度王は、中国との朝貢貿易を実現して500年にわたる琉球王国繁栄の基礎を固めました。当時の浦添は、浦々を襲う(支配する)土地という意味で「うらおそい」とよばれていました。

その頃、沖縄島の北部と南部にも山北(さんほく)・山南(さんなん)という王国が現れて、浦添の中山と対立していました。1406年に察度王統から中山王権をうばった第一尚氏(しょうし)は、山北・山南も滅ぼして、首里に都をおきました。その後、浦添グスクは浦添家の館となりましたが、1609年に薩摩軍に焼討ちされ、廃城となりました。第二次大戦では、日米両軍の激戦地となりました。浦添グスクとその周辺には、こうした歴史を物語る遺跡・遺構が残されています。

中山(ちゅうざん)の範囲は地図のピンクの部分。 

 

何の前知識も無く行ったのだが、博物館の中に王陵(西側の墓室)内部が復元されていて、びっくりした。

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非常にリアルで、はいった瞬間は本物か(そこに資料館を作ったのか)と思った。

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英祖王の石棺(石厨子)のレプリカ。

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四周の壁にさまざまな浮き彫りがある。沖縄に現存する最古の仏像彫刻となるそうだ。

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台座に掘られた蓮の花の中のカエル。中国泉州の石彫様式と似ているそうだ。

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鞠で遊ぶ虎。躍動感がある。

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洗骨が多数収められた石棺もあった。(本物か?)

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外へ出て、「ようどれ」へ向かおうとして反対側に行ってしまったら、東屋風の展望台があったので上ってみた。正面の緑がさきほどの嘉数高地。

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その右をズームすると、オスプレイも写った。(肉眼では厳しい)

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南西側の眺め。おもろまちのツインタワー(マンション)も目視できる。

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ズーム拡大。直線距離で4.5kmだった。

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下記は、Wikipediaの「浦添城」の項より。

土台は隆起珊瑚礁が長さ約400メートル続いている断崖の上に築かれた。舜天王の時代に創建され、12世紀-15世紀初頭にかけて舜天、英祖、察度の3王朝10代にわたって居城した所との伝承をもつが史実かどうかについては確証を欠いている。規模は、東西約380メートル、南北約60ないし80メートルで、北は急崖をなしているが、南は緩斜面となっている。

城内の建物は再三にわたり改築されているが、最後のものは1609年、慶長の役に伴う薩摩軍の侵攻に遭い焼失した。

その防衛に適した地形から沖縄戦では首里周辺の重要拠点として重視された。日本軍は防衛拠点に位置づけ死守に拘ったため、米軍との間で前後11回にわたる激しい争奪戦、攻防戦が約3週間の間繰り広げられた。陣地攻略を指揮していた米軍第24軍団長のホッジ少将は「(この砦を)一寸刻みに爆破していく以外に、日本軍を追い出す方法は無いと思う」と述べたとされる。

 

沖縄独特の地形が、緒戦の個別地上戦では日本軍に有利に働いたが・・・