沖縄県立博物館を見学した際に戦争遺跡の地図があり興味を惹かれたので、9月27日の土曜日、羽田に戻る前の時間で車を借りて行ってみた。
南部へは昨年訪れたので嘉数(かかず)高台のトーチカを目指した。
初めに海軍砲台跡を見ようと思って航空自衛隊那覇基地へ伺ったが、見学は月水金のみで2週間前までの事前申請が必要とのことだった。
基地のサイトには砲台のことも書かれている。
「殊勲砲」と紹介されており、米軍上陸に際して米海軍軽巡洋艦1隻を撃沈したと言われている、とある。
下記のブログで詳しく紹介されていた。
行き当たりばったりではだめか・・・
気を取り直して、嘉数(かかず)へ向かった。
・嘉数高台公園(かかずたかだいこうえん)
那覇市街から車で20分ほどの場所にある。結構広い駐車場があるが、左手の広場でゲートボールが行われていて結構満杯だった。
公園の案内板。高台の南側に駐車場がある。
以下はWikipediaより。(文章を短縮しています)
嘉数の戦い(かかずのたたかい)
嘉数高台をめぐる、1945年4月8日(7日)からの16日間に行われた沖縄戦最大級の激戦。日本軍は低地に「反斜面陣地」を構築して頑強に抵抗したため、嘉数は米軍からは「死の罠」「忌々しい丘」などと呼ばれた。
日本軍は10倍以上もの米軍に持ちこたえて結果的に大きな損害を与えた。この戦いでの時間稼ぎは、後方陣地の構築や情報網整備、武器弾薬の搬入に役立ち、この戦いの経験(塹壕及び洞窟陣地からの反撃)は、この後の戦いでも米軍を苦しめた。
一方でこれ以降、米軍は火炎放射器を多数投入して洞窟陣地を焼き払う「馬乗り戦法」を採ることになる。
嘉数戦の日本軍の戦死傷者は64,000人に上った。このことから嘉数戦を事実上の決戦地(勝敗の決定地)とする意見がある。沖縄戦に投入された日本軍の総兵力は約100,000人であるから、その半数あまりが嘉数で損害を受けたことになる、というのがその論拠である。ただし、64,000には軽傷者が含まれているため、実際に戦闘不能となったものは20,000程ではないか、という意見もある。
また嘉数を決戦地とする意見のほかには
- シュガーローフの戦いが敗北を決定的にしたとする意見。
- 西原の戦いが敗北を決定的にしたとする意見。
- 首里撤退が敗北を決定的にしたとする意見
などが存在する。
戦後60年以上も経っていることからどれが事実上の決戦地であるかを確定することは難しくなっている。ましてや決戦地の説は当時の日米両軍の作戦計画にあったものではなく、現在から戦史を振り返った時に出たものであるから、決定的な結論は今後も出ないと思われる。
日本軍にとっては「どれだけ時間稼ぎをするか(ただしそれが現地の犠牲を拡大した)」であり、決戦地がどこだったかを議論しても詮無いように思いますが・・・
展望台に登る階段の下には、「弾痕の塀」が移設展示されていた。
もとは民家の塀。下記は案内板の記述。
戦前の嘉数は、家屋敷や道路が碁盤状に整備され、田畑に囲まれたのどかな集落でしたが、日本軍が駐屯し陣地構築を始めると、軍靴の音が響くようになりました。
米軍上陸後の嘉数は、日米両軍の主力が激しい攻防戦を繰り広げた場所となり、住民はもとより、住みなれた家屋敷なども大きな被害を受けました。
戦場となった嘉数では、日米両軍の銃弾・砲弾が雨あられのごとく降り注ぎました。この弾痕の塀は、それを物語るものです。 宜野湾市
苔のついた石段を上る。
地球儀を模した展望台。先客が1組あったが、すぐに誰もいなくなった。
展望台には、さまざまな案内板や歌碑などがある。海抜92mのさらに上に建っているので見晴らしがいい。
真正面に普天間基地が望める。かつて、左の海岸に上陸した米軍が戦車で進撃してきた場所が目の前になる。
カメラをズームすると、駐留するオスプレイがよく見えた。土曜日なので離着陸はなかった。
左が海。中央の先が普天間基地。
上記と反対側の眺め。こちらにも別の丘がある。
丘の中腹に、要塞のような建造物があったので、このあと行ってみた。(行き当たりばったりでも、いいことはあった)
展望台の下で咲いていた鮮やかな花。
展望台のそばには「トーチカ」が残っていた。
トーチカの入口側。下部が埋まっていて、現状では入れない。
銃口のあった側。
側面から見たところ。70年近くを経て木も育っている。
北側の斜面には墓として使われていた。
戦争中は塹壕代わりにもなった亀甲墓。
この看板がところどころにあるので、草むらは恐る恐る歩いた。
このほかに陣地壕入口があるが見そびれた。 高台の内部の壕は200m続いているそうだ。
沖縄観光チャンネル(個人の方のサイト)に詳しい情報が掲載されていました。
次に、南側の丘に見えた建造物に向かった。浦添城跡だった。