墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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「沖縄シュガーローフの戦い」(続きの前編)

前回のつづき。

本の内容をもう少し紹介します。

 

米軍側がなぜ苦戦したかについては、米軍側のリーダーの作戦ミスもあるように書かれていました。

日本軍の速射砲が米軍戦車の装甲を破壊する力を持っていたこともありますが、シュガーローフヒル(安里52高地)が高さ15m・長さ100mほどの小さな丘にもかかわらず、固い珊瑚岩で覆われていて艦砲射撃にもよく耐え、日本軍が事前に周囲の2つの丘とトンネルで連携した陣地構築をしていたことによって、逐次的な戦力投入で正面突破を図ろうとした米軍に対して甚大な被害を与えたようです。

 

「はじめに」の部分で下記のように触れられています。(8頁)

(米軍側の戦死傷者の)リストの増大は同時に沖縄戦における最大の論点を浮かび上がらせてきた。それは「アメリカ地上軍の最高司令官、サイモン・ボリス・バクナー中将は、なぜ日本軍の防衛線の背後への上陸作戦を拒んだのか?」である。こうした上陸作戦の可能性については、陸軍、海兵隊の両軍の高官が何度となく主張したが、そのつどバクナー中将に拒否されつづけていた。バクナーは、こうした米軍側の被害を減らし島の占領を早めるとした案を批判し、迂回戦術はこのましくないと反対した。今日でも、この論争に決着はついていない。

 

そして最終章では次にように(326頁)

(6月22日、嘉手納飛行場の近くの米第10軍の司令部では沖縄全土の占領を記念して国旗掲揚式がもよおされたが)バクナー中将は、この勝利を祝う場にいなかった。6月18日、彼は新たに戦線に投入された第2海兵師団を視察するために前線をおとずれた。バクナーは糸満市真栄里にある高台で視察していたところ、日本軍の至近弾が炸裂して飛び散った珊瑚岩が、彼の胸にささり10分後に死亡した。

彼は死によって、作戦計画をめぐる論争からは解放された。

 

 

訳者によって紹介された、日本軍側のストーリーも非常に興味深く思いました。(訳者解説の箇所をまとめています)

1つ目 日本軍の部隊が沖縄に向かうまでの話

昭和19年6月24日、千葉県の佐倉で、 後にシュガーローフヒルで第6海兵師団と対峙することになる独立混成第15連隊が、近衛歩兵連隊を中心に習志野や木更津、その他関東地方の部隊出身の兵士ら(計2180名)で新設され、門司港へ向かい待機した。

一方、同じ沖縄防衛の命を帯びた、南九州で編成された第44旅団や四国で編成された第45旅団は、6月27日に鹿児島港から富山丸で沖縄へ出航、4000名余りの将兵と車両、火砲、弾薬、燃料を満載した船は、駆逐艦2隻と哨戒機の護衛があったものの、徳之島沖で米潜水艦の魚雷を受け1分半で沈没。戦艦大和の戦死者より多い3874名が死亡した。

門司で待機していた独立混成第15連隊は宮崎県の新田原基地から空路で沖縄に渡った。

 

2つ目 八原大佐と長少将の話

上記と同時期、牛島中将、長少将など新たな司令官が着任したが、作戦参謀として7月2日に着任した八原大佐は陸軍大学校を主席で卒業、硫黄島の栗林中将と同じく米国留学経験もあった。八原は当初から強固な陣地を構築しての徹底した持久戦と、砲兵による火力重視の方針を採用し、不必要な消耗を避けるために海岸付近での抵抗を行わず、海岸線からはなれた高地や丘陵内の陣地でひそかに米軍を待ち受けた。

1945年4月1日に米軍は現在の嘉手納基地の北に上陸して南下をはじめ、4月下旬には安謝川から首里、与那原にいたる最終防衛ラインに迫った。

この時点で、戦力に余力があるうちに総攻撃を主張する長参謀長と、持久戦による徹底抗戦を主張する八原作戦参謀の意見が対立、前線の指揮官の意見も2つに割れたが、長参謀が押し切り、牛島中将が命令を追認した。

1万発の支援砲撃のもとの一斉突撃だったがすぐに米軍の圧倒的火力に撃退され、師団の半数が死傷、攻撃に参加した第5砲兵団は保有する砲弾の大半を一日で撃ち尽くしてしまった。

(独立混成第15連隊がシュガーローフ周辺の守備を命ぜられたのは、その後5月6日のことだった)

 

シュガーローフ周辺の防衛ライン陥落後、日本軍は首里から、民間人も避難していた南部に撤退。その後の1ヶ月間で多くの民間人が犠牲になったことは周知のとおり。

 

6月20日、摩文仁の司令部にに米軍が迫り、牛島中将と長参謀長は大本営に訣別電文を送ると自決し、沖縄戦は事実上終結した。八原作戦参謀はこの戦闘の教訓を日本本土に伝えるために、民間人に化けて脱出をはかったが、途中で米軍の捕虜になってしまい、のちに激しい批判にさらされた。