昔の人口について検索したら鬼頭先生の名前が出てきたので著書を読んでみた。
鬼頭氏は上智大学経済学科教授。大学HPによると専門は日本経済史、担当科目は人口学、日本人口史、日本経済史。
とてもわかりやすく書かれた、一般向けの本でした。
ざっくり推移だけ転記(部分的に抜粋、四捨五入)すると下記のようになる(7~8頁)
縄文早期(8100年前) 2万人
縄文中期(4300年前)26万人
縄文晩期(2900年前)8万人
弥生時代(1800年前)60万人
奈良時代(725年)451万人
平安前期(900年)644万人
鎌倉時代(1280年)595万人
室町時代(1450年)1005万人
慶長5年(1600年)1227万人
享保6年(1721年)3128万人
明治6年(1873年)3330万人
大正9年(1920年)5596万人
昭和25年(1950年)8411万人
平成17年(2005年)1億2777万人
縄文時代の人口は、小山修三という方の統計結果が引用されていた(こちらは未読)
縄文時代―コンピュータ考古学による復元 (中公新書 (733))
- 作者: 小山修三
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改めて認識したのは、人口は増加一辺倒ではなく、停滞や減少も繰り返したきたということ。
昔から気候変動による自然環境の変化には影響を受けてきたが、食糧増産技術、渡来人の流入や戦前の移民政策、疫病や戦争、種痘の普及による小児死亡率の改善、都市化、工業化、晩婚化などいろいろな影響がある。
興味深かったのは前工業社会の都市の死亡率の高さで、都市は人口を吸い寄せては食い殺す「蟻地獄」として機能していたという記述(96頁)
(なぜなら、奉公人は未婚/6割以上の世帯が低所得で晩婚か非婚/人口密度が高いのに消毒した上下水道がなく、疫病に対する知識、技術、医薬が充分でなかった/食料を金で購入するので飢饉が起こると米が高騰し買えなくなった)
そもそも読み始めた動機は、縄文時代~弥生時代の人口変動だったが、その点については下記の記述があった(29頁)
(小山推計によると)縄文時代を通して、人口の圧倒的多数が関東・中部・東北を中心とした東日本に偏っていたことがわかる。早期から中期にかけて、東日本人口は大きく増加したが、西日本の増加はそれに較べると非常に小さい。ところが、中期から後期にかけて、関東・中部地方の人口が半分以下に減少したのに対して、西日本では2倍以上の増加をみせた。また中期から晩期までの間に関東・中部地方の人口が8分の1ほどにも激減してしまったにもかかわらず、東北では安定的で、西日本では減少したものの縄文前期に較べれば最終的に増えた結果となっている。
それはなぜか、ということが、加曽利貝塚でも気になったところ。
この本では食べ物と気温との関係にが、一つの説として紹介されていた(32頁~34頁)
縄文人は食料資源としてドングリ、クリ、クルミなどの堅果類を多く食べていたらしいが、堅果類が実る落葉広葉樹林帯は北緯38度を境に北東に広がっていたので人口も東日本に多く分布していた。南西に分布した照葉樹林では、カシやシイもあるが生産量はクリやコナラにくらべて圧倒的に少なく、いつも暗い森の中は人が入ることさえ難しかったと考えられる。
縄文中期の4500年前からは寒冷化により2500年前には年平均で3度下がったが、気温の低下にも関わらず東日本の平野部では照葉樹林帯が押し寄せてきて食糧が減ってしまった。疫病の可能性もあるが、どちらも「可能性のひとつ」のようだ。
落葉広葉樹が残っていた東北や、もともと照葉樹林帯だったがために早くから稲作を進めた西日本は影響を受けなかったが、関東、中部地方では大打撃だったらしい。
寒冷化に伴って照葉樹帯が北上した理由には触れていなかったが、下記のようなことだろうか。
・落葉樹林帯は南限を延ばそうとし、照葉樹林帯は北限を延ばそうとした。
・照葉樹林は、冬でも葉があって成長するので、落葉樹との戦いに勝てた。
だが、そうであれば落葉樹林の堅果類の恩恵を受けていた縄文人は人為的に照葉樹を刈っていった(そうすれば落葉樹が勢力を延ばすはず)と思うのだがどうなのだろう。
46頁~49頁には、気になっていた「ルーツ」の部分がまとめられていた。
見出し:人口の70%~90%が渡来人の子孫!?
弥生時代の最大の人口増加要因は稲作農耕であるとしながらも複数の仮説が紹介されている。
・埴原和郎氏による頭骨の研究
弥生時代から奈良時代にかけての千年間に数十万人から百万人以上の渡来人が来たので奈良時代人口の70~90%が北アジア系の渡来人の子孫(「日本人と日本文化の形状」朝倉書店)
・佐藤洋一郎氏による水稲DNAの研究
弥生時代に水田遺構が急速に増えるが、中国や朝鮮半島と比較すると日本の水稲のDNAタイプ数は極めて少なく、水稲をもたらした人の数もそれほど多くなかったはず(「イネが語る日本と中国」農文協)
・篠田謙一氏による古代人骨から採取したミトコンドリアDNA研究でも、大量の渡来があったことには疑問があるという。(「日本人になった祖先たちーDNAから解明するその多元的構造」NHKブックス)
著者の意見としては、「日本人は、アジア諸地域に共通するいくつもの祖先をもち、それらが自由に行き来していくなかで成立したというべきであろう。形質やDNAを共有する集団が移動してきても、いまとなっては在来の日本人か渡来人なのか、簡単に区別することはできないのではないだろうか」と結ばれていた。
ー・ー・ー・ー・ー・ー
そもそも著者の専門は日本人起源論ではなく、古代から現代までの人口変動を調べることで、現代日本が直面している未曾有の高齢化・少子化・人口減少社会に対処する糸口を見つけようとする「人口減少問題」であった。
先の大戦後の人口の激変について触れた箇所も自分にとって発見があった。
・太平洋戦争では軍人軍属156万人、民間人67万人が亡くなったが(その大部分は1945年に集中)、敗戦によって本土に引き揚げた在外邦人は660万人以上で、1945年から50年までに625万人が帰ってきた。
・戦争中に控えられていた結婚が一気に行われ、短期間に集中して子供が生まれた(1947年~1949年の第一次ベビーブーム)人口増加
引き揚げとベビーブームによって人口は5年間で1105万人も増加し、戦時中の死亡と産み控えによる人口減退を埋め合わせてしまったそうだ。
が、1948年に優生保護法が施行され人工妊娠中絶が合法化し、ベビーブームは短期に終わり50年代には急速に出生率が下がる。
今の日本の最大の課題、少子高齢化は70年近く前からわかっていたことになる?
著者は「困難こそ、発明の母である」と締めくくる。
「人類が農耕を発明したのは、きつい労働を要求される農耕であっても、気候の乾燥化によってイネ科の植物を利用せざるを得なかったから」であり、「人口圧力が農業進歩を促した」と考えられる。産業革命も同じように「欠乏」が「進歩」のきっかけだった。
少子高齢化社会では女性が働くことがより求められるが、女性が働くと出生率は下がる。よって今後の日本の課題への処方箋として挙げられるのは下記になる。
・企業がワークライフバランスをとれるような環境整備すること
・男も家事、育児に参加すること
・国も地方政府も結婚、出産を個人任せにしないで十分支援すること
・地域社会が育児を支える仕組みにすること
つまり「子供は未来からの預かりものと考えて社会全体で支える必要があり」「生活のあり方、ジェンダー観、働き方などを根底から変えねばならず、その変化は文明のシステムの転換となる大きな変化だ」と結ばれていた。
古代のことを考えるつもりで読み始めたが、現在の課題を改めて考えさせられた。
本には「古代と現代の間」の時代も当然詳しく書かれているので、興味が沸いた方は原本を読まれることをお勧めします。わかりやすく書かれた本を長々を説明してしまいました・・・