墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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神門5号墳 戸隠神社(本郷古墳群) 千葉県市原市

神門(ごうど)5号墳は上総国分寺の寺域の隣にある。

いちはら埋文講座で触れられたように、あとから造られた国分寺が墳丘を避けた経緯がある。

低地に向かって降りていく斜面に造られており、前方部が斜面の下、後円部が斜面の上に造られている。

下側の道路から見上げる。正面奥に前方部、左奥が後円部。

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前回訪問時は周囲すべてが柵で囲まれていた記憶があるが、今回は開いているところから墳丘に上がらせていただいた。

前方部の横から墳丘。

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後円部にあたるところ。墳丘上の眺望はない。

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「後円部」から「前方部」方向。

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説明板は平成26年3月に、新しいものに替えられていた。内容はより詳しく(ちょうど講座に沿った内容)、地図や写真もわかりやすくなっている。下記に転載(赤字は説明板にはありません)

「県指定史跡 神門5号墳 市原市惣社5丁目5-1

邪馬台国時代、西暦3世紀になると、汎列島規模で地域間の交流が活発になります。この時期、国分寺台地区の中台(なかで)遺跡、南中台(みなみなこんだい)遺跡、長平(ちょうべいだい)遺跡、天神台遺跡などでは、近畿地方(奈良県、滋賀県周辺)や北陸地方(福井県周辺)、東海地方(愛知県、静岡県周辺)、北関東地方(茨城県、栃木県周辺)などの特徴をもった土器が出土し、こうした地域からの移住や交流の地として、国分寺台地区は東日本でも拠点的な地域となりました。そして、これら遺跡群を中核とした地域統合の象徴として神門古墳群(3・4・5号墳)がつくられました。また、遺跡群の中心となる中台遺跡(上総国分僧寺跡下層)では、政祭の場と推定されている神殿風の掘立柱建物跡も発見されています。

現状、古墳群最古の5号墳が千葉県指定史跡として保存されています。5号墳は、昭和23年に発掘調査が行われ、墳頂部直下から埋葬施設が確認され、鉄剣・鉄鏃・ガラス玉・土器等が出土しました。その後、昭和58年に国分寺台土地区画整理事業に伴って、改めて発掘調査が実施され、墳形などが明らかになりました。墳丘は、直径30~32.5m、高さ5mの円丘部(後円部)と、その西側の長さ12mの突出部(前方部)からなる前方後円形であり、全長は42.6mで周囲に幅約6mの周溝をめぐらせています。前方部は短小であり、こうした墳形は、奈良県桜井市纏向古墳群を中心とし、全国的にも数が限られており、5号墳は、東日本においては最古の古墳です。西暦紀元後3世紀前半の造墓と推定されています。

神門5号墳は、市原における国づくりの過程を明らかにするだけではなく、古墳発生と前方後円墳の起源を考える上で極めて貴重な古墳です。

平成26年3月 市原市教育委員会」

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 【再掲】前回訪問時の説明板。

http://massneko.hatenablog.com/entry/2013/06/24/164037

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国分寺西門跡に1本寄った坂道から、台地下に広がる眺望が得られた。

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上の写真の左に入る道に戸隠神社があった。

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早速お参りする。社殿や鳥居にかかる、房のある注連縄が立派だった。

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境内には複数の社が祀られていた。

この日は「房総の古墳を歩く」を手引きに回ったが、後から「埼群古墳館」さんのサイトで、この戸隠神社も古墳群(本郷古墳群)であることを知った。(事前準部不足)

・本郷1号墳 浅間塚になっている(溶岩が積まれ、登れたようだがわからなかった)

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・本郷2号墳 こちらも祠が建つ。これが旧神門1号墳だった!

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稲荷神社に参ったが、こちらは墳丘ではないよう。

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境内には、もう一基あるようだ。(旧神門2号墳)

埼群古墳館さんのサイト

http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/index.php/itihara_hongo/

本来の参道は台地下側についていた。

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大きな房。

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 豊かな緑の眺めがあった。

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