国分尼寺跡の後は、国分寺へ。ここは中台(なかで)遺跡でもある。
駐車場と道を挟んで巨大な貝柱が並んだような西門の跡がある。
説明版には西門発掘時の写真もあった。
「西門は、金堂と講堂の間の西方に位置し、伽藍地の西側の塀に開いていた門です。平成2年3月の発掘調査で間口3間10.8m(36尺、10+16+10)、奥行2間5.7m(19尺、9.5+9.5)の三間一戸の八脚門であったことが分かりました。
柱は直径約50cmの掘立柱で、一度建て替えられていました。また、西門が建てられる前に、南北5間12m、東西3間6.75mの掘立柱建物が建っていたことも分かりました。
西門跡については、平成5年度に位置や規模が分かるように整備しました。柱のあいだに甎(せん)を並べたところは壁であったことを示しています。」
説明版のマップ(再掲) 左が北。
以下も説明板より転載。
「国指定史跡上総国分寺跡は、市原が古代上総国の政治・文化の中心であったことを象徴する歴史的文化遺産です。
上総国分寺(僧寺)は、寺域が12.9万㎡におよぶ、武蔵国、下野国に次ぐ規模を誇る代表的な国分寺でした。寺域のやや南西より南北219m、東西194mの範囲に塀をめぐらし、伽藍を配置していました。伽藍配置は南大門・中門・金堂・講堂が南北に並び、七重塔は、回廊に囲まれた金堂前庭の東側に配置しているのが特色です。藤原京の大官大寺に類似しています。
伽藍地の北東には政所院(東院と呼ばれていた可能性があります)、北西には薗院(えんいん)、南には花苑などの付属施設が配置されていました。ほかに講院(こういん)、綱所(ごうしょ)、経所(きょうじょ)、油菜所(あぶらなじょ)、厨(くりや)などの施設が置かれていたことが、出土した墨書土器から推測されます。」
現在の国分寺は真言宗豊山派の寺院、医王山清浄院。旧国分寺の跡地の上に立ち、その法灯を受け継ぐとされる。旧国分寺は応永年間(1394年-1427年)頃までの存続は確認されているが、その後荒廃していた。縁起によると元禄年間(1688年-1704年)に僧・快応によって再興され、正徳6年(1716年)現在の薬師堂が落成したと伝えられる。また、のちに仁王門も設けられた。(Wikipediaより。以下も)
西門跡のすぐ後ろ(東側)に仁王門が建つ。旧国分寺は南北軸だが、現在の国分寺は東西軸。
仁王門は江戸時代中頃の建立で、金剛力士像は阿形は南北朝時代(頭部は後補)、吽形は江戸時代の作で、いずれも市の文化財に指定されている(いずれも市原市指定文化財)
「将門塔」として応安5年(1372年)造営とされる宝篋印塔。市指定文化財。
もとは菊間新皇塚古墳の墳丘上にあって「将門の墓」として伝承されてきたが、形や刻まれた年号が将門の時代と合わないので「将門と結びつく点はない」そうだ。
新皇塚古墳は、菊間にあった4世紀の前方後方墳だったが消滅してしまった。
その周辺の天神山古墳等の様子。
http://massneko.hatenablog.com/entry/2014/01/20/124419
江戸時代の正徳6年(1716年)に建立の薬師堂。「比較的新しい」江戸期生まれといえども、もうすぐ300歳。茅葺屋根のボリュームが大きくて印象的。
薬師堂内部の厨子の説明板。
「国分寺薬師堂は、桁行三間、梁間三間のいわゆる三間堂といわれる形式で、正面に一間の向拝(庇)が設けられています。また、周囲には、高欄を付ける切目縁がめぐります。屋根は、茅葺の入母屋造りで、建物内部には、内陣天井に植物模様の絵、外陣に竜及び飛天が描かれています。
また内陣の須弥壇に置かれた厨子は、手の込んだ唐様に作られ、金・朱・緑の彩色が施されています。以下省略」
内部を見てみたいが機会はあるのだろうか。
厚みのある茅部分。
正面の庇が出た部分が優美な曲線を描く。
薬師堂の右側を進むと、広場の中に七重塔の礎石が佇む。市原市役所ロビーに30分の1スケールの復元模型がある。
http://www.bunkouken.com/m_kazusa.htm
礎石の横に、上総国分寺跡の説明板がある。左下が国分寺、右上が国分尼寺跡。ちょうどその間に、谷戸を隔てて市原市役所が建つ。
国分寺を出て西門跡前の道を少し北に行った場所、おそらく独立棟持柱建物を含む方形区画と思われる場所(駐車場)に立つケヤキの巨木。樹齢1300年だったら昔を見たはずだが、胸高直径1mで100年(下記のyahoo知恵袋)とすると、せいぜい江戸時代生まれか。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1082263145