墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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講演「古墳時代の武人について」

2/2日曜日、船橋市海神公民館で、飛ノ台史跡公園博物館主催の講演会に行った。

・テーマ 「古墳時代の武人について」群馬県渋川市の「金井東裏(かないひがしうら)遺跡」で発見された鎧を着た武人について

・講演者 群馬県埋蔵財調査事業団 友廣哲也氏

 

金井東裏遺跡は、榛名山の北東側扇状地、吾妻川を望む河岸段丘上にある。

2012年12月にバイパス道路工事に伴う発掘調査で古墳時代の武人が甲を着装した状態で見つかった。その事実も、火山噴出物の下から被災人骨が発見されたことも、全国初とのことで大きく報道された。その後も調査が続き、CTスキャンで兜もあった等の新事実もあり、考古学ファンの注目度は高い。当日も100名くらいの方々が熱心に聴いていた。

直接発掘に携わっている研究者の方の話なので臨場感があった。

群馬県埋蔵財調査事業団のサイトでこれまでの資料が読める。

http://www.gunmaibun.org/info/kanaiura.html

 

6世紀初頭の榛名山噴火の火砕流の下から発掘された遺跡は、規模は違うが1世紀後半(79年)にヴェスビオ山噴火の火砕流で地中に埋もれ18世紀に発掘された世界遺産ポンペイを思わせる。

ただ、鎧を着たまま四つんばいに倒れた武人は、後頭部が上半分欠失しており、火砕流の激しさを生々しく伝えていて、古代の発見というより噴火の猛威の印象が先に立つ。 

 

特に面白かった内容

・火山灰層の下から古墳(円墳2基)が見つかっていること

当然未盗掘で副葬品もそのまま残っている。倒れた武人の一世代前、5世紀後半築造の古墳とのこと。葺石があるが、東西方向のものは火砕流で剥がれている。

その古墳のひとつから砥石(鉄とセットの身に着ける飾りとして)が出ており、技術者として高い地位であったことも可能性として考えられるのではとのこと。

 

・鎧の小札(こざね)の一部が骨で出来ていたこと

動物の骨の小札は国内初、ソウルで一部分の事例があるだけで、鉄素材とセットで出土したのは初めてだそうだ。骨では防御できず、白い色で目立たせる飾りではなかったかとのこと。ちなみに小札式鎧は、鉄板を曲げた短甲より防御は劣るが身軽なので馬上戦に適しているようだ。

 

・足跡の方向から集落の位置が想像できること

発掘エリア(バイパス)は渋川市金井の地の東側を北から南に円弧を描いて迂回しているが、見つかった「最初の火山灰降灰を踏んだ足跡」は、発掘エリアを横切るように東西に方向についており、現在の金井の地がまさに当時も人々の生活エリアだったと考えられるとのこと。

 

「道」の話も興味深かった。

東山道はヤマト王権が敷いた交流ルートで、鉄や馬という資源が流通していたと認識していたが、鉄については弥生時代から北陸ー山陰ー朝鮮というルートがあったという指摘が面白かった。つい最近読んだ本「日本史への挑戦―関東学の創造をめざして (森浩一・網野善彦共著 ちくま学芸文庫) 」にも、関東から日本海ー朝鮮とは複数のルートでつながっていたとの指摘があったが、友廣氏の話でも金井東裏遺跡のすぐ北には「ヒカゲミチ」があって吾妻川に沿って日本海に通じていたとのこと。

 

Google Mapを見ると、渋川を通る今の長野街道は国道353、145、144と続き鳥居峠を越えて上田市にはいる。そこから上田盆地、長野盆地を経て、信越本線沿いに北へ向かえば上越市で日本海に着く。

前記の本でも、川中島で武田が上杉と激しく争ったのも、その交流ルートの重要性を認識していたからだとあったが、あらためて地図を見ると納得できる。

 

友廣氏からは、「金井」という地名も鉄との関連であることの示唆もあった。よく聞く普通の単語なので、意味を見過ごしやすい。

ちなみに吾妻川(記憶違いかもしれません)では砂鉄がとれるそうで、友廣氏も大雨の後、川沿いの地べたが黒くなっているところがあり、磁石をつけると砂鉄の山となったという体験談を話されていた。

ただし、日本国内の製鉄遺跡は早くて7世紀、8世紀以降で、古墳時代のものは見つかっていないそうだ。

 

素人考えで、ヤマト王権が東山道、東海道を敷いたのは、蝦夷と鉄物資の交流があったからでは、なんて勝手に想像をめぐらせていたが間違いのようだ。そもそもヤマト王権が敷いた、ということも思い込みだったか?

 

質疑内容も自分にとって面白かった

Q:火山灰の下なので、考古学より地質学(火山学)から正確な年代は出ないのか

A:榛名山の噴火時期は、地質学の方が数十年の誤差が出る。それより同火山灰層のすぐ下から出た土器などの発掘物の状況を総合して6世紀初頭とした考古学の方がより確か。

 

友廣様、飛ノ台史跡公園博物館の学芸員のみなさま、貴重なお話を聴く機会を与えていただき、誠にありがとうございました。