墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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千葉市郷博「歴史散歩」参加 荒久古墳

 千葉市郷土博物館主催の「歴史散歩」に参加。

13:30から16:30まで、猪鼻地区を「散歩」した。

講師は天野良介先生(千葉市教育委員会)、博物館のオザワ氏が同行した。

テキストとサブテキストも用意され、充実した屋外授業だった。参加費100円。

・郷土博物館外観

千葉城が千葉氏の拠点であったのは12世紀~15世紀の中世(330年間!)なので、実際は戦国時代スタイルの天守閣とは無縁。昭和42年に小田原城を模して鉄筋でつくられたそうだ。

土塁と郭、空堀や虎口跡は残っていて興味深かった。

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台地の下に湧き出ていた「お茶の水」井戸。

源頼朝も徳川家康も、この井戸の水で茶を飲んだという伝説があるそうだ。

この井戸は「土気・東金往還」に面している。

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井戸の後ろにお不動さん。不動尊は清水と縁が深い(水垢離との関係)そうだ。

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 ・高徳寺

猪鼻山の麓は寺がとりまいている。智光院、胤重寺を通り、高徳寺へ。

室町期の閻魔王坐像の特別公開。

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1495年と内面墨書銘でわかっていて室町期の基準作例になるとのこと。

左隣の奪衣婆坐像も1543年作だそうだ。垂れた乳がリアル。

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隣の墓地には、「白戸家」の墓。「ホワイト家」の方が有名になってしまったが、ここに眠る白戸栄之助氏は日本の民間操縦士第一号で、墓石の上部に彫られている図案はプロペラだそうだ。

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・東禅寺

木造薬師如来(座高80cmほど)を拝観させていただいた。

薬壷を持つ左手が胸の近くまで上がっている珍しい形。慶派の作風。

非常に端正な姿。1240年代の造立と考えられるそうだ。

残念ながら撮影不可。

 

・千葉大学医学部本館(旧付属病院) 昭和12年

8000㎡の大きさは当時東洋一で、昭和53年までは付属病院として使われてきた。

軒下などはボロボロな感じだが、スクラッチタイルは綺麗だし、車寄せの4本柱がスラっとした印象を出している。

(機銃掃射の跡があるというネット記事もあった)

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玄関入り口。重厚感と軽妙感が同居する?

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中央ホールのタイル。

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ホール吹き抜けの上にはステンドグラス。

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・現在のサークル棟。かつての精神病棟。 昭和2年

少し前までボロボロだったそうだ。

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外壁上部がアカンサス浮き彫りイオニア式柱頭のデザイン。

中の階段手すりなども凝っているそうだ。また見に来よう。

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・校門向かいの七天王塚。構内にもある。千葉氏の妙見信仰にちなんで、北斗七星をかたどって配置されたそうだ。

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千葉氏7兄弟説や、将門の七騎武者説もあるそうだ。

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・東金往還 青葉の森公園内の旧道

公園内の橋から旧道を見下ろした眺め

青葉の森は、大正5年から昭和54年まで国の畜産試験場があった跡地。だから貴重な旧道が残った。総面積は53.7haでTDRと同じくらい。

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切り通しで、高低差が緩やかになている。九十九里から干鰯(ほしか)が運搬され、江戸と浦賀の問屋が全国に流通させていたそうだ。

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・荒久古墳 方墳 1辺20m 8世紀?

かつては石室にも入れたそうだが、縄で囲ってあって墳丘にも寄れない。

横穴式石室、方墳という形態から古墳時代終末期と想定されている。

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案内板が無残。

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古墳からの眺め

千葉寺とは600mの距離。千葉寺と荒久古墳との関係は、龍角寺と岩屋古墳との関係のように、仏教導入期と古墳終末期が同じ場所でクロスオーバーしている事例だ。

反対方向、古墳の近くに欧州風の池と古代風パーゴラがあって、コスプレイヤーたちがたむろしていた。

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・千葉寺(せんようじ)

709年に行基が一つの堂を建てたことが始まりで、天平時代には一大伽藍(寺家数十カ寺)があったそうだ。奈良時代の瓦が境内から発掘されている。千葉国造の力の大きさを示す?

本堂は空襲で焼けて再建。

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・境内の大公孫樹 県天然記念物

本堂が焼けたのによく残った。

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乳柱がすごい。さっきの奪衣婆を思い出してしまうが。

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・説明版によれば1300歳!

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昔の参詣道。奥の茂みが千葉寺。

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