墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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上総国分尼寺、稲荷台1号墳、神門5号墳

上総国分尼寺

6月22日の昼過ぎに出発。郷土資料館でたっぷり説明を受けて復元された回廊を見る。

残念ながら修復中。11月に完成するそうだ。

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稲荷台1号墳

国分尼寺から北東に数100mのところに稲荷台1号墳記念広場が。

以下は説明板より転載。

この広場は、稲荷台1号墳の所在地で、昭和51年12月から翌年の3月にかけて発掘調査されました。実際の古墳はすでに消滅しましたが、正面に3分の1で墳丘を復元しました。

稲荷台1号墳から出土した鉄剣より、王賜で始まる銀象嵌の銘文が、X線撮影によって発見され「王賜」鉄剣と名付けられました。

銘文 (表) 王賜□□敬□

   (裏)  此延□□□□

「王賜」銘鉄剣は、5世紀中頃、古代国家成立期における畿内と東国との結びつきを知る上で貴重な資料と言えます。

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3分の1(直径か面積か体積か?)で復元。

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上総国分寺跡

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神門(ごうど)5号墳

国分寺の敷地の目の前にある。残念ながら中に入れない。

以下は説明板の転載。

神門5号墳は、養老川下流の沖積地を望む台地突端に造られた古墳で、北側には3・4号墳があり、神門古墳群を形成していました。

昭和23年に発掘調査が行われ、墳頂部直下から埋葬施設が確認され、鉄剣・鉄鏃・ガラス玉・土器等が出土しました。その後、昭和58年に国分寺台土地区画整理事業に伴って、改めて調査が実施されました。

古墳は、直径33m、高さ5mの円形の墳丘と、その西側に張り出した長さ5.5m、幅5mの突出部を持った全長38.5mのいちじく形をした墳形で、周囲に幅6mの周溝をめぐらせています。このような墳形は、前方後円墳が定型化する以前の古墳の様相を示しています。また、埋葬施設から出土した土器には、弥生時代後期(3世紀頃)の土器や、北陸地方あるいは近畿地方と直接関連がある土器が含まれていました。この結果、神門5号墳は弥生時代終末期の弥生墓から古墳へ移り変わる時期に造られたことがわかりました。

このように、神門5号墳はわが国の古墳発生及び前方後円墳の起源を考える上で極めて重要な古墳です。

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その横に瓦窯跡が。

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南田瓦窯跡から神門5号墳(お墓の向こう)

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