墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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西戸古墳群1号墳・西戸2号墳(移築) 埼玉県入間郡毛呂山町西戸・大類

今回からは10月3日に訪ねた、埼玉県の毛呂山町・坂戸市の辺りの古墳です。

最初に向かったのは古墳が集中するエリアの西端でピンが立っていた西戸(さいど)古墳群1号墳。越辺川(おっぺがわ)の左岸にあります。

方向的にはこの正面ですが、道路からは墳丘が見えず。

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上記を右に入って木々の下から覗くと斜面が。

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墳頂には祠。

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裾を回り込んでみます。径20m位でしょうか。

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石段がありました。高さは2~3m。

ピントの位置が…

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祠に参拝。

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祠の横から石段側を。

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そこから徒歩で30分近く、車で5分の越辺川右岸に、西戸2号墳が移築されていた。

 

毛呂山町大類にある毛呂山町歴史民俗博物館の前庭に。墳丘断面には版築も再現。

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石室を開口部側から。

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詳しい説明板がありました。

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西戸2号墳
毛呂山町の越辺川流域にある古墳群のうち、最も上流にあるのが西戸古墳群です。この古墳は明治26年(1893)に一度発掘されましたが、平成2年度に再び本格的な発掘調査を行い、この度資料館に石室を移し、発掘調査時の状態に復元いたしました。
発掘調査の結果、古墳の周りに掘られる溝(周溝)は発見されず、墳丘を河原石で覆う葺石が古墳東側でわずかに見られたものの、本来どのような形の古墳であったかはわかりませんでした。
石室は、凝灰質砂岩の切石を用いて築いた横穴式石室です。凝灰質砂岩は東松山市を中心とした比企地方の岩殿丘陵に見られることから、当所から石室構築材として切り出された可能性があります。明治期の発掘により、石室の天井や壁の一部は原形を留めていませんでした。石室は全長2.15m、最大幅1.53mでほぼ南に開口していました。石材に切り込みを入れ、石と石とが互いにかみ合わさっているほか、1段目と2段目の石材との間に偏平な石を外側からはさみ、やや内傾を保ちながら積み上げる技術も見られました。墳丘の構築の様子は、石室外側の砂利(裏込め)と黒色の封土が交互に盛られていることでよく判ります。
西戸2号墳は、6世紀末から7世紀初頭に築造されたようですが、石室内から8世紀頃の遺物が出土していることや、3人以上の人歯も確認されていることから、横穴式石室の特徴の一つである追葬がなされたと考えられます。
越辺川流域の古墳は、石室に多くの河原石を用いる傾向がありますが、凝灰質砂岩の切石も用いられていることで、古墳時代後期の多様な埋葬施設をうかがうことができました。なお、石室内から出土したガラス小玉、須恵器長頸壺、金環などの副葬品は資料館に展示されています。
平成10年3月 毛呂山町歴史民俗博物館

 

直方体に加工された石が整然と積まれています。

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さきほどの、西戸1号墳にもこのような石室が眠っているのでしょう。

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奥壁を背に、しゃがんだ位置から。

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近くにあった石碑は明治の築で、その碑文からは当時の人々が古墳に対して抱いていたイメージがわかるという貴重な資料になっています。

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西戸古塚記
この石碑は西戸2号墳上に建てられていたもので、明治26年(1893)にこの古墳を発掘した時の様子を記したものです。縦書十行、漢文による刻まれ、その概要は次のとおりです。

入間郡川角村西戸に、行任塚という古い塚がある。今年の秋、長雨により表土が崩れて石が出てきたので下を掘ってみると、槨(くるわ:横穴式石室か)がすがたをあらわした。槨の内部は分かれて2つになっていて、その広さはどちらも一丈(畳)がかりであった。仲からは人骨、刀、鏃、金環が発見され、人骨は数体分あり、主従関係にあるようで、殉死者がいたようだ。この古墳は、行任その人の古墳であろうか。生きた人がいっしょに葬られたのであるから、この被葬者は貴人と考えられる。
この土地の所有者は供養のために石碑を建てることを考えられ、私(この碑文の作者)も同感であるから、明治26年の初冬、古塚の由来を書き記したのである。

なお、地元には、道祖士(さいど)の祖である平維新(たいらのいしん:行任)という人物が初めてこの地に入り、行任塚はこの人の墓であり、近くの丸山城(不明)は平維新が築いた城であるという伝説があります。
殉死者や平維新伝説といった内容は史実とは考えられないでしょうが、これらの碑文や伝説から、明治中頃のひとびとがどのような思いで古墳を見つめていたかが理解され、大変貴重な資料となっています。

堤根古墳(神北公園) 千葉県野田市堤根

前回の「もりのこうえん」から日光東往還を南に徒歩15分の場所にも、ふさの国ナビゲーションが示す遺跡ポイントが記されていたので行ってみた。

一枚目写真はまさかの手振れ。

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振り返っての住宅街。

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公園として整備されています。

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「堤根古墳」の説明板がありましたが内容は微妙。

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堤根古墳
堤根古墳は、これまで方形の古墳であると考えられてきたためにその名称があります。平成10年に野田市教育委員会により形態や規模を調べるための確認調査が実施され、一辺25m、高さ2.4mの規模をはかり、平面図が方形で三段築成されていることがわかりました。
しかし、古墳の周囲に巡る「周溝」と呼ばれる溝が発見されなかったので、中世から近世に築かれた何らかの供養や信仰の塚であると考えられるようになりました。
なお、地元の伝承では、慶長5年(1600)に徳川家康が上杉景勝を攻めた際に築いたと伝えられています。しかし、家康がこの地に凱旋したという記録は文献には残されていません。

 

周溝のない古墳も、よくあると思いますが…

発掘調査は、されないのでしょうかね。

 

墳頂から北東方向。

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姿勢良く座るゴリラ。

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パンダは目の周りが白くなっていました。

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北東側からみた”墳丘”。

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グーグルマップ上には「神北公園」の表示のみだったので、「堤根古墳」の情報も追加しました。

 

そこから野田市駅へ戻る途中。徒歩25分でしたが地図で見つけた近道へ。倉庫の門手前を左へ。

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旧線路の際の細道。

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野田市駅入口は仮駅舎でしょうか。

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高架の外壁も含めて大工事中でした。

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