墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

画像が出ない場合はPCで、クロームOSでお試しください。

築地界隈の建築巡り・28 築地大橋 東京都中央区勝どき~築地

隅田川の最も河口側に新しく架かった築地大橋(2018年11月4日開通)を、初めて渡ってみました。

 豊海水産埠頭行の都バスに乗って、勝どき橋を渡り、新島橋のバス停で降ります。

 

新島橋の北西側に気になった店舗があったので寄り道しました。 

f:id:massneko:20210225172445p:plain

 

いい雰囲気の長屋建物ですが、背後はビルが屏風のようにそびえています。

f:id:massneko:20210225173318p:plain

 

そのビルの先の並びにあった店舗。古い木造建築をリノベーションしていて、2階のテラスが気持ちよさそう。

f:id:massneko:20210225172508p:plain


その先の枝道を入ると、長屋建物が続いていました。

f:id:massneko:20210225172527p:plain

 

奥から振り返って。ノスタルジックな、いい雰囲気が残されていました。

f:id:massneko:20210225172245p:plain


そのまま北西側へ歩いて、浜前橋を南西側に渡ります。

右側の勝どき5丁目には、勝どき・ザ・タワーをはじめとして高層マンションが並び立っていました。

f:id:massneko:20210225172629p:plain

 

こちらが築地大橋の勝どき側のたもと。自転車の入れるエレベータ付き。

f:id:massneko:20210225172748p:plain

 

隅田川を、ちょうど松本零士氏デザインの「ヒミコ」号が通っていきました。

f:id:massneko:20210225172804p:plain

 

上流へ向かう船の先には勝鬨橋。

f:id:massneko:20210225172822p:plain

 

築地大橋の歩道に上がりました。

f:id:massneko:20210225172848p:plain

 

上部が左右に開いたアーチが特徴的。

f:id:massneko:20210225172903p:plain

 

そこから振り返った勝どき側。

この道は環状2号線で、道路の中央車線はそのまま橋上を晴海~豊洲~有明埠頭までつながっています。

f:id:massneko:20210225172923p:plain

 

アーチの鉄骨は、やや細身。

f:id:massneko:20210225172936p:plain


鉄骨の間から東京タワーが見えました。

f:id:massneko:20210225172953p:plain


歩道は、橋の中央で車道から左右に張り出していて、間に川面が見えます。

f:id:massneko:20210225173008p:plain

 

そのあたりから上流側の勝鬨橋の雄姿をズームで。

f:id:massneko:20210225173028p:plain

 

勝鬨橋も、築地界隈の名建築ですね。

かつては中央の2つの橋脚の間が、跳ね橋になっていて「ハの字」に開いていました。

橋脚内には今でも開くための「メカ」が残っていますが、4年前の見学会に参加しました。

重要文化財 勝鬨橋見学ツアー(前編) かちどき 橋の資料館 

重要文化財 勝鬨橋見学ツアー(中編)・運転室

重要文化財 勝鬨橋見学ツアー(後編)・橋脚内部 - 墳丘からの眺め

※後編のみ、写真をはてなフォトグラフに貼り換えました。前編・中編はグーグルクロームのブラウザでしか写真が見られないように思います。

 

築地大橋のアーチ部を、築地側から。

f:id:massneko:20210225173156p:plain

 

振り返ると、更地になった旧築地市場。 

f:id:massneko:20210225173046p:plain

 

汐留方面の眺め。左の緑は浜離宮。

f:id:massneko:20210225173212p:plain

 

「揮毫 東京都知事 舛添要一」とののプレートが入っていました。

f:id:massneko:20210225173225p:plain

 

4年前に、完成前の様子を遠望していました。

築地大橋の状況 2017年9月初め - 墳丘からの眺め

f:id:massneko:20210228102029p:plain


このときはまだ、築地市場がありました(1年後の2018年10月に閉鎖)が、市場の建物を撮るタイミングを逸してしまいました。

f:id:massneko:20210228101958p:plain

 

築地大橋について検索すると、橋梁構造から細部までのデザインと、上部工・下部工の詳細設計を担当さらた「大日本コンサルタント」のサイトが上位にあり、見ていくと橋梁架設時の動画が掲載されていました。

築地大橋 | 大日本コンサルタント株式会社


隅田川橋梁架設

最寄りの埠頭を「地組みヤード」として使ったそうです。

築地界隈の建築巡り・27 門跡橋跡 東京都中央区築地3丁目

築地4丁目交差点から晴海通りを勝鬨橋方向を見ると、途中で道路が少し盛り上がった箇所がある。 

築地本願寺の南角のあたりに架かっていた、門跡橋の跡(東京時層地図アプリで昭和30年代前半の地図から)

f:id:massneko:20210228201510p:plain


今でも晴海通りの歩道脇に、親柱が残っています。

f:id:massneko:20210228094659p:plain

 

川は埋め立てられて、晴海通りの北側は駐車場に。奥は聖路加礼拝堂の塔。

f:id:massneko:20210226144422p:plain

 

位置をずらすと、築地本願寺との競演に。

f:id:massneko:20210226144315p:plain

 

親柱脇に英文併記の解説板もあります。 

f:id:massneko:20210226144327p:plain

門跡橋の親柱

所在地:中央区築地3丁目17番8号先

門跡橋は、昭和3年(1928)6月に築地3丁目(現在の築地3・4丁目)と南小田原町1・2丁目(現在の築地6丁目)との間に架けられた築地川南支川の震災復興橋梁でした。

昭和61年(1986)から開始された築地川の埋め立て工事や道路の拡幅工事に伴って撤去されましたが、その時に花崗岩製の親柱1基が高欄の一部とともに、この場所に移築保存されました。

なお、門跡橋という名称は、江戸時代に同じく築地川南支川に架けられていた小田原橋の俗称から取ったものです。当初は「築南橋」という橋名が名付けられていましたが、昭和3年11月、西本願寺の門徒代表以下59名から、東京市長宛に「門跡橋」への名称変更に関する陳情書が提出され、門跡橋と改称された経緯があります。

この親柱は、復興事業の歴史を今日に伝える資料として重要であるとともに、震災復興橋梁がこの辺りに架けられていたことを物語る貴重な文化財です。

令和2年3月 中央区教育委員会

 

解説板の写真のアップ。

f:id:massneko:20210226144343p:plain

 

 この説明板の写真は、アンナ・シャーマン著の「追憶の東京 異国の時を旅する」で取り上げられているものだと思います。

追憶の東京 異国の時を旅する

追憶の東京 異国の時を旅する