墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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車坂古墳 大分県宇佐市大字川部

川部・高森古墳群を北側から逍遥中。角房古墳から南へ順にめぐる。 

こちらは車坂東1号墳。

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その解説。

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車坂東1号墳
車坂古墳をとりまく古墳の一つ。天井部分がこわされている。石室の構造は、竪穴系横口式石室の系譜を引くもので、埋葬室(玄室)に向かう石積みの通路(羨道)がなく、また、玄室入口(玄門)の形や、斜めに下降する墓道の構造などに特徴がある。
石室の構造:玄室長3m、幅1.5m
出土遺構:なし
墓造年代:5世紀末~6世紀初

 

前回の4号墳より少し大きめ。

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中に入って。雨水が溜まった跡があった。

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園路を進むとすぐに車坂古墳。

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全長56mの前方後円墳。なかなかの規模。

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車坂古墳
前方部を東に向けた前方後円墳である。古墳の北側は駅館川の河谷に接するため濠をつくらず、南側から東側にかけて広い空濠をめぐらしている。
古墳の南西約20mの位置には地蔵堂古墳と呼ばれる小円墳があり、南側の平地(森の広場)には5世紀中頃~後半にかけて造られた数基の方形周溝墓がひかえている。
宇佐風土記の丘の古墳群の中では福勝寺古墳についで築造されたものと考えられる。
埋葬主体については未調査のため不明である。
全長:58m
後円部直径:36m
前方部長:23m
前方部幅:21m
周溝(空濠)幅:約11~22m
葺石:あり
史跡:昭和55年3月24日指定

 

しかし、この看板が。

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マムシの季節になっているので周囲からのみで。このあたりが後円部か。

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くびれ部のあたりか。

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前方部のあたりか。

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ほとんど変わり映えのしない3枚でした。

この前方後円墳のそばにも方形周溝墓跡が。

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説明板で、九州の方形周溝墓は「古墳時代のはじめに前方後円墳などとともに採用された」ものであることを学んだ。

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車坂2号方形周溝墓
石棺など墳墓の主体部の周囲を溝で方形に囲んだ墓で「方形周溝墓」と呼ぶ。弥生時代に近畿地方を中心に流行した墓制である。九州では、古墳時代のはじめ前方後円墳などとともに採用された。
「宇佐風土記の丘」では、前方後円墳を取り囲むように分布している。前方後円墳の被葬者に次ぐ階層の人々の墓とみられる。

 

左側の木立が車坂古墳。右手前が車坂2号方形周溝墓。 

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角房古墳 大分県宇佐市大字川部

赤塚古墳の見学後は大池の堤を渡って、駅館川沿い段丘側に点在する古墳群をめぐった。

堤の道の先にあった石室がまず目に入る。

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車坂東4号墳との解説が。石棺と石室の二つの要素を持つこのタイプはこの地域では珍しいそう。

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車坂東4号墳
安山岩の板石を立て、その上に河原石を積み上げて石棺を作っている。石棺と石室の2つの要素をあわせもち、この地方ではこれまで例をみない特異な様式である。
規模:長さ2.1m 幅約0.6m
出土遺物:刀子(1)
時期:5世紀 

 

ちょうど横になれる大きさ。 

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そこから右へ向かうと、川沿い側公園エリアの北端に角房(かくぼう)古墳があった。

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本来は前方後円墳。 

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角房(かくぼう)古墳
現状では円墳のようにみえるが、本来は前方部を西に向けた前方後円墳である。内部主体等は不明だが、外形や墳丘の周辺の状況については昭和52年度に発掘調査が行われ、概要が判明している。
それによれば、後円部は現状より大きく径30mにおよび、周りには幅7mほどの濠がめぐらされていた。外形の特徴からみて、福勝寺古墳や車坂古墳についで築造されたものとみられる。
規模
墳丘全長 46m(推定)
後円部直径 30m(推定)
前方部長 18m(推定)
前方部幅 18m(推定)
周溝(空濠)幅7.4~12m
葺石 有り
昭和55年3月24日 国指定史跡に指定(川部・高森古墳群) 

 

残っているのは後円部。左側に当初は前方部があったようだ。

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 川部・高森古墳群(宇佐風土記の丘)全体については、わかりやすい解説が県立歴史博物館のパンフレットに掲載されていた。

「宇佐風土記の丘」古墳群
県内最多の前方後円墳を中心にした遺跡
〇立地 権力の象徴(眼下に宇佐平野、北東に豊前海)
「宇佐風土記の丘」は県内最大の史跡公園です。前方後円墳を中心にしてその周辺に小円墳や方形周溝墓などの墓が展開している様子がよく分かります。前方後円墳が権力の象徴であることはよく知られていますが、ここ「川部・高森古墳群」も、北東には豊前海をのぞみ、広く宇佐平野を見下ろす駅館川(やっかんがわ)東岸の台地上に造られています。それぞれの前方後円墳に葬られた人物(被葬者)は、宇佐平野とその周辺の広い範囲を影響下においた支配者と考えられ、陸・海の両方から仰ぎ見ることのできるこの地は、被葬者の権力を誇示するにはまことにふさわしい条件の地と言えるでしょう。
〇類例 県内では唯一の構造
前方後円墳を中心に方形や円形の墓(周溝墓)が数多く集中している遺跡は珍しく、大分県内では唯一ここだけで見ることができます。規模の面でも大変貴重で、6基の前方後円墳と120を超える周辺の墳墓の数は、九州では宮崎県西都原古墳群(約320基)に次ぐ規模を持っています。
〇成立時期 古墳時代の前期から後期にかけて
博物館の正面にある赤塚古墳は県下最古の前方後円墳で、古墳時代前期初め頃に造られました。赤塚古墳からは5面の三角縁神獣鏡が出土しました。ちなみに、この頃中国では、三国志で有名な諸葛孔明が活躍しています。
次に前期中頃の免ヶ平古墳が続き、最も新しい鶴見古墳は古墳時代後期に属します。角房古墳・車坂古墳・福勝寺古墳はこの間の前期末頃から中期前半に造られた前方後円墳とみられますが、未調査のため明確ではありません。
〇特徴 首長と選ばれた人々が眠る聖なる地
最も顕著なことは6基の前方後円墳がすべて違う方向に造られていることと、鶴見古墳を除く各古墳の周辺に、小型の墳墓が存在し、集団墓を形成していることです。赤塚古墳の南西部には17基余りの方形周溝墓が認められます。これらは赤塚古墳が造られた頃から古墳時代前期を通して次々に造られたようです。また、博物館の東から南側にかけての丘陵上には合計32基の方形・円形周溝墓が古墳時代中期~後期にかけて造られていたことがわかりました。同じような現象は免ヶ平古墳や角房古墳にも認められます。
これらのことなどから、古墳時代の前期から中期の宇佐平野には有力なムラ(集団)が複数存在し、それぞれの首長が時期毎に別々にこの地方全体の代表者となり、「宇佐風土記の丘」に前方後円墳を築造した様子がうかがえます。また、ムラでは古墳周辺の被葬者が選考され、集団の中で選ばれた人だけが墓を造ることができたと思われます。
現在、宇佐平野の有力な集落遺跡は荒木に所在する小部(こべ)遺跡と別府の別府(びゅう)遺跡など少数で、その実態も充分に明らかとは言えません。しかし、後に現れる古代宇佐の有力氏族は、この古墳時代からすでに複数存在することは確実であり、「宇佐風土記の丘」はそうした集団の首長と選ばれた人々だけが眠る聖なる墓地であったと考えられます。
今後、宇佐平野における集落遺跡の調査が進めば、遺跡としての「宇佐風土記の丘」の重要性や価値はさらに高まることでしょう。