墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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岡宮天皇(草壁皇子)真弓丘陵  奈良県高市郡高取町

草壁皇子の墓である可能性が高いという束明神古墳を見た後は、宮内庁により草壁皇子陵と治定されている方の古墳へ向かいました。300mほど南の素戔嗚神社脇。

 

神社を右手に見ながら田んぼ脇の道を下ります。

 

途中で振り返って。左奥は集落を歩いていて気になった小山。右は「ふるさと会館」への近道です。

中央の表示板を撮っていたら軽トラのおじさんに「タケノコ持って行くか?」と声を掛けられました。持ち帰れないので遠慮しましたが、なんと親切な。

 

上がった右が素戔嗚神社、左が拝所。

 

右に”小山”を見ながら進みます。


まずは拝所へ。横から拝する形。

 

玉垣の向こうに墳丘のラインがうっすらと。

 

南側に広がる景色。

 

分岐に戻って今度は素戔嗚神社に上がります。

 

社に参拝。

 

その左手に


墳丘を見ることができました。

 

ズームで。

 

岡宮天皇(草壁皇子)真弓丘陵で検索をしていると、↓こちらのブログに興味深い説が紹介されていました。明治の初め、社会がまだまだ混乱していた頃ですから、あり得たかもですね。

明治初年に束明神塚古墳が天皇陵に指定されそうになったとき、村民たちが当局を騙してこの森側の神社を陵に指定させたともいわれています。
陵墓に指定されると、立ち入りが禁止されたり、接収されたりすることが危惧されたからでしょう。

草壁皇子の陵墓を探して−束明神古墳−岡宮天皇陵−山田

 

2024年4月上旬訪問

束明神古墳 奈良県高市郡高取町佐田

マルコ山古墳を見た後は、南西に700mほどの束明神古墳へ。

佐田の春日神社の東裾にある、「ふるさと会館」の駐車場を利用。

 

表示板に従って坂道を上がります。

 

行き止まりに見えますが、奥の階段の右に参道が続いています。

 

その先の石段。

 

振り返っての甍の波。中央の小山が気になりますが、古墳のピンは立っておらず。

 

石段ストレート。

 

上がった先の鳥居。

 

その右側に墳丘がありました。

 

石槨の規模や周囲の造成が大規模であることなどから、草壁皇子の墓である可能性が高いとのこと。

束明神古墳
この古墳は明治26年の野淵竜潜による「大和国古墳墓取調書」に初めて記され、その後「大和国高市郡古墳誌」等にも報告されているが、それほど目立った存在として取り扱われていなかった。橿原考古学研究所では高松塚古墳の調査後、終末期古墳の研究を進め、束明神古墳が後背部に大きなカット面を持つなどの特色から終末期古墳として注目してきた。こうした認識にたち、昭和53年に外形の実測調査を実施し、これをもとに各方面からの検討を加え、昭和59年4月16日から発掘調査を行った。調査は、由良大和古代文化研究協会の助成を受けて奈良県立橿原考古学研究所が高取町教育委員会と協働で実施した。
古墳は尾根の南側を直径約60mの範囲で造成し、その中央部に墳丘をつくっている。石槨の規模等についてもこれまで調査された終末期古墳にみられなかった大規模なものである。石槨の変遷・棺の構造・須恵器等から総合的に判断して、7世紀後半から末頃と考えられ、また歯の鑑定結果は男女の性別は不明で、年齢は青年期から壮年期と推定される。
草壁皇子(天武天皇と持統天皇とのあいだに生まれた皇子)の墓である可能性が大きいといわれている。
高取町教育委員会

 

高取町のサイトによれば、対角線の長さ30mの「八角形墳」とのこと。

束明神古墳 - 高取町観光ガイド

下記のサイトには発掘調査時の石槨の写真が載っています。

束明神古墳 | ええ古都なら

 

こちら(南側)に開口部があるのでしょう。

 

昨年、橿原考古学研究所附属博物館の前庭に展示されている石槨のレプリカを見ました。

橿原考古学研究所附属博物館 奈良県橿原市畝傍町 - 墳丘からの眺め

 

50㎝×50㎝×30㎝に加工した凝灰岩を約500個も組み上げており、今見ると素っ気ないコンクリブロックのようにも感じられますが、当時の最高の技術でしょう。

 

そんな大きなものが中に埋まっているとは思えない、可愛らしい墳丘でした。

 

山側に「遥拝所」の石碑がありました。

 

山側の神社社殿に参拝。

2024年4月上旬訪問