12月初めの土曜日、世田谷区成城に名建築を訪ねました。
文化勲章も受賞した建築家・吉田五十八(いそや:1894~1974)が昭和42年、72歳の時に設計した個人宅。
施主の猪俣猛氏は財団法人労務行政研究所の理事長を務めた方。現在は世田谷区が管理し、世田谷トラストまちづくりの協力のもとで無料で公開されています。
https://www.setagayatm.or.jp/trust/map/pcp/
この一画には長い生垣もあります。東京では希少になった雰囲気を味わえました。
生垣の向こうにチラリと見える屋根群。
料亭のような門を入り、飛び石を伝って玄関へ。
20名ほどのツアーで参加。行列して入ったこともあり、玄関までの魅力的なアプローチは撮りそびれてしまいました。
玄関を上がってすぐの、一番広い部屋。
見事な庭では雪吊りが。
障子戸や雨戸を全部しまいこめる仕様。戸を受ける溝も、複々々線のよう。
部屋の開口幅は広く、建物の内と外との境が感じられなくなる開放感がありました。
背面側には中庭も。
その隣がダイニングキッチン(?)
後ろの部屋が台所で、扉を開けて配膳できます。
中庭への戸も「複々線」仕様。
右下の戸は、角が45度に削られていて、戸同士が直角に集まるポイントがピタッと重なります。
上記に当たる戸、45度。
広間の照明は天井に半分埋め込まれた形。掘り込みの段々が、戸の溝の複々線を受けているように感じられました。
庭に向かって右手の壁側。 床の間の要素がモダンな形に生まれ変わっています。
隣の洋室も、同じように広い開口部。
作り付けの家具には鏡台も。
続く部屋はお座敷。
床の間に向かって右側の壁。
向かって左側。障子の桟は正方形だったり縦長長方形だったり。
このような「組み障子」の意匠は吉田五十八に始まるようです。
障子の後ろの廊下からは奥に雁行する開放的な部屋が。
部屋奥からの眺め。
庭を愛でるための建築。
外側の戸はレール仕様。レールの手前には、ちょっと座りたくなるような高さ・幅が。
そこから広間・玄関側の眺め。
その背面の小窓からは最も赤く色づいた紅葉が。
最初の大広間から軒下に降りて。
後ろには茶室に続く道。
内部の廊下を伝って、茶室を入口から覗くことができます。
こちらは別の茶室。雁行した部屋の奥側。
そのまま庭へ。
庭側から見た主屋。
雪吊りの円錐が、くるくると踊っているようでした。
吉田五十八が手掛けた仕事を展示する部屋もあった。
吉田五十八(1894~1974)
明治27年12月19日、父・太田信義、母・トウの五男第八子として、東京・日本橋に生まれる。明治f44年、五十八が16歳の時に母方の吉田家へ養子に入る(以後吉田姓)
大正12年に東京美術学校を卒業して吉田建築事務所を開き、建築家としての第一歩を踏み出す。大正14年4月から翌年1月まで欧米へ遊学。帰国後、設計事務所を再開し、特に数寄屋建築の近代化に努め、荒組の障子、大壁造りの壁体、アルミ棒の下地窓など、独自の手法を通じて、因襲化した数寄屋建築を再生させた。太平洋戦争後は、木造以外の構造の大規模な建築にもその優れた日本的感覚を盛り込み、数多くの作品を造り上げた。他方、建築教育にも携わり、昭和16年に東京美術学校講師、昭和21年同教授、昭和24年東京芸術大学教授、昭和37年同名誉教授となった。
昭和27年に日本芸術院賞を受け、昭和29年に日本芸術院会員となり、昭和39年(1964)11月には文化勲章を受けた。
また、昭和35年にメキシコ建築家協会、昭和43年んはアメリカ建築家協会から名誉会員の称号が贈られている。
太田信義は太田胃散の創業者、58歳の時の子なので五十八を名付けられたそうです。
こちらは別の中庭。
日本家屋で中庭を設けると、屋根の形が複雑になります。
心がすっとするような建築でした。
吉田五十八建築は、これまでにもいくつか訪ねていました。
昭和29年(1954)、59歳で手掛けた山口蓬春アトリエ。
五島美術館は65歳、昭和35年(1960)に。
吉屋信子邸は67歳、昭和37年(1962)
再建された吉田茂邸も昭和30年代後半に増改築を手掛けています。
外務省飯倉公館・外交史料館は76歳、昭和47年(1971)