墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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岡山県古代吉備文化財センター 岡山県岡山市北区西花尻

岡山県吉備古代文化財センターは吉備津神社裏手の吉備中山の上、中山茶臼山古墳の近くにある。

 

3階建ての大きな建物。 

 

その一階の一部屋が常設展示室。

 

こちらは弥生期末から古墳時代にかけての展示。

 

上記の左端に並んでいたのは製塩土器。左端の弥生後期から右に向かって古墳時代前期~中期~後期と形が変化していく。

塩をつくる土器
吉備では弥生時代中期から、土器を用いて海水を煮詰める製塩が行われるようになりました。このころの製塩土器は口が大きく開いた鉢に脚台を付けた形をしていましたが、後期になると口がすぼまり脚台も小さくなります。古墳時代に入ると板で叩きしめて製塩土器をつくるようになり、中期には脚台を失って小さなコップ形に変わります。そして、大きなボウル形となった後期を最後に、製塩土器は吉備から姿を消します。

 

弥生時代から古墳時代にかけて、人々が活発に列島内外を行き交っていたことは、地域色が出る土器が物語っている。

運ばれた土器 古墳時代
弥生時代の末から古墳時代の初頭にかけて(約1800年前)、東海から北部九州の間では、人と物が盛んに行き交うようになります。瀬戸内海の中央に位置する吉備においても、岡山市津寺遺跡をはじめとする足守川流域の集落を中心に、九州・四国・山陰・近畿・東海・北陸などの土器が持ち込まれる一方で、吉備の土器も各地へと運ばれました。こうした広範な交流は、さまざまな価値観や習俗を共通にする役割を果たしたに違いありません。その結果、新たに創出された前方後円墳という墓制は瞬く間に各地へと広がり、倭国という統一的な政治体制の象徴となったのです。

 

 岡山で出土した、全国各地の土器。

運ばれた土器が語るもの
各地から運ばれた土器には、煮炊きに使われた甕を中心に、貯蔵用の壺や食器の高坏などがあります。これらが、交易にかかわる品々であったのか、あるいは持ち運んだ人々の生活用具であったのかはわかりません。しかし、土製支脚のように需要の限られた土器は、それらを用いる人々の来住を物語っているようです。ひょっとすると、運ばれた土器を供えた墓に葬られたのは、他所から移り住んだ人々なのかもしれません。

 

岡山県赤磐市の土井遺跡からは埴輪窯が見つかっている。鹿の頭部がリアル。

土井遺跡の埴輪窯
赤磐市の丘陵部にある土井遺跡では、岡山県では初めてとなる埴輪窯が2基見つかりました。いずれも斜面を掘りくぼめて天井をかけた半地下式の窯で、2号窯は全長6.6m、幅1.2mあります。窯の内部からは埴輪とともに、土師質陶棺の一部が見つかり。同一の窯で焼成されていたことが明らかになりました。また、窯の脇に設けられた平坦地からは、人物・動物・器財埴輪などを含む多量の埴輪が出土しています。

 

盾持埴輪もあった。

 

こちらは、吉備にて弥生時代に供物をささげる器として現れた壺と器台のセット。

まつりのうつわ
弥生時代に現れた器台は、供物を捧げるために使われたまつりのうつわと考えられています。中期には様々な文様で飾り立てられましたが、後期になると次第に大きくなって高さが1mを超える特殊器台も作られました。これらは後に近畿地方へ運ばれ、埴輪へと姿を変えます。
しかし、古墳時代に入ると山陰地方や近畿地方の影響を受けた器台が見られるものの、吉備独自の器台は姿を消してしまいました。

 

残念ながら、特殊器台埴輪はお出かけ中(?)でした。

弧帯文様が入った新見市西江遺跡出土の特殊器台(弥生時代後期末頃)や倉敷市矢部堀越遺跡の特殊器台形埴輪(古墳時代初頭)は、公式サイトに画像がある。

http://www.pref.okayama.jp/site/kodai/622624.html

 

こちらは朝鮮半島系の土器。

高塚遺跡の朝鮮半島系土器
高塚遺跡は、足守川の自然堤防上に営まれた古墳時代中期の集落跡です。
ここでは吉備最古のカマドをもつ竪穴住居が見つかっており、格子目叩きを残す長胴の甕や平底の鉢、底に花弁状の穴を開けた甑など、朝鮮半島のものとよく似た土器が出土しました。
この遺跡の近くには、吉備最大の造山古墳がありますが、その被葬者が渡来人を招きよせたのかも知れません。

 

古墳時代後期の弥上古墳出土の須恵器など。

弥上古墳の須恵器
赤磐市弥上にある弥上古墳は、6世紀後半に築かれた、全長30mの前方後円墳です。後円部に設けられた横穴式石室は、全長9mの片袖式で、初期の亀甲形陶棺や木棺が収められていました。
副葬品には、トンボ玉・丸玉などの装身具、武器の鉄鏃、金銅装の馬具などがありますが、多量に出土した須恵器には、飲食物を高々と捧げるため長い脚台を備えたものが多く、被葬者の格の高さを物語っているようです。

 

赤磐市の斎富2号墳出土の須恵器は、今見ても洗練された形。

須恵器 台付有蓋壺
古墳時代後期 赤磐市斎富2号墳
トンネル状の穴窯で焼かれた須恵器は、製作技術が朝鮮半島から伝わった当初から、古墳の副葬法の器としても用いられました。
この壺は、三角形の透かし孔を三段に飾る高い脚台を持ち、蓋には液体を注ぐ器をかたどったつまみをつけるなど、装飾に富んだつくりで、有力者にささげられた特別な容器と考えられます。

 

須恵器焼成などの技術は、造山古墳などが築かれた時期である古墳時代中期に朝鮮半島からもたらされた。

 

5世紀前半の造山古墳築造時には、畿内から円筒館ももたらされたようだ。  

円筒形をした棺
造山古墳の南側にある一辺5mの方墳から見つかったもので、墳丘の中央に横たえ、両端を石でふさいで埋められていました。上半部のみの復元ですが、本来の高さは169㎝あり、突帯で区切られた各段には円い透かし孔が開けられていたようです。これとよく似たものは大阪府の古市古墳群で見つかっていて、5世紀前半の造山古墳造営を契機に、畿内から導入された技術を活かして製作されたものと思われます。

 

その後に陶棺も流行する。

 

真横から。

 

このように遺体が納められる。

 

全国で出土した陶棺の7割は岡山県で、特に美作地方で多くみられるそうだ。

陶棺(赤磐市弥上古墳出土)
陶棺は古墳時代後期から飛鳥時代にかけて使われた土製の棺です。その多くは古墳の横穴式石室から見つかっています。陶棺はこれまで九州から東北地方にかけて約700基出土しており、岡山県で見つかった陶棺は全国出土数の約8割を占めています。県内でも特に美作に多く、その出土数は群を抜いています。

 

こちらは古代の護岸工事の再現。

 

杭が6000本って、すごくないですか。

古墳時代の護岸工事
昭和63年(1988)秋、岡山市津寺遺跡で、約1400年前(古墳時代後期)につくられた護岸施設が地表下1.4mから発見されました。
杉の皮などをはさみながらこんもりと盛った土手に、アベマキの木を加工した背丈ほどの杭を6000本以上も打ち込み、長さ3mばかりの横木で補強して基礎を固めています。川の幅50mに対して幅7~17m、全長82m以上の護岸を築くという大がかりな工事には、当時のすぐれた土木技術や知恵、そして莫大な労力が結集されています。この護岸施設は現在、きめの細かい砂で再び埋め戻され保存されています。

 

「津」寺とか、吉備「津」とか、やはりここは古代瀬戸内海交通の一大拠点だったのでしょうね。

 

 

鬼ノ城城壁の版築土層剥ぎ取りも展示されていました。

 

きれいな縞模様になっていました。