前回の造山古墳群見学後に総社市に入って多くの墳丘・石室を訪ねたが、平野からも山の上に見えていた「鬼ノ城(きのじょう)」を先に。
たまたま次回のブラタモリに取り上げられることを知ったので…
https://www4.nhk.or.jp/buratamori/x/2019-11-30/21/14686/2009152/
車なら、岡山駅から50分前後、備中国分寺あたりから20分強。
現地には70台収容の駐車場があるが、そこまでの道は狭い一車線なので要注意。
この時は朝8時頃で自分は2台目だった。ビジターセンター(9時開館)の左が園路になる。
結構な傾斜を登って行くと”学習広場”という名の展望台が。
絶景が目の前に広がった。
説明板あり。
鬼ノ城へようこそ
学習広場からは、復元された西門や角楼、城壁を見渡すことができます。また、眼下に広がる平野部やその先に瀬戸内海、さらには四国の山々も遠望することができます。
鬼ノ城は平野部より見上げる位置に築かれ、周囲は非常に険しいがけで、絶壁となる場所も少なくありません。しかし、城内に入ると広い平坦地となっています。
城を築くには最適な地形であり、まさに天然の要塞であったと言えます。
では、いつ、何のために築かれた城なのでしょうか。記録には残っていませんが、伝承尾では温羅(うら)という鬼神が築いたと言われています。
しかし、発掘調査によって鬼ノ城は7世紀後半に築かれた古代山城の一つと考えられています。古代山城は、国を守るために九州北部から瀬戸内海、近畿にいたる地域に戦略的な築城をしています。
鬼ノ城は対岸の屋嶋城とともに瀬戸内の最重要拠点として築かれたと推測されます。
城の周囲は2.8㎞、城内面積は30ha。上野公園(14ha)の2倍強、TDL (51ha)の3分の2弱の広さになる。
7世紀後半ということは、白村江の戦い(663年)にて唐・新羅連合軍に敗北後、その後に備えるために築かれた可能性が高くなる。
岡山県観光連盟のサイトにも「大和朝廷によって国の防衛のために築かれたとされる古代山城」とあるが、「鬼ノ城は歴史書には一切記されておらず、その歴史は解明されずに謎のまま」とも記されていた。
日本100名城のひとつだそう。
https://www.okayama-kanko.jp/spot/10755
隣の尾根上に見えていた城壁と櫓。
東の方向。
東南東をズームで。
南東側。
足元に石室石材的な岩がころがっていた。
南方向は総社市の市街。
南東方向。
どこかに造山古墳が見えることを期待して登って来たが、確認はできなかった。
展望台の下にも大きな岩がゴロゴロしていた。
園路に戻って城壁のほうへ。
角楼跡を登ると、その先に大きな櫓が。
ここが城門(西門)の跡。
西門跡
鬼ノ城は、4ヶ所に城門を設けています。いずれも掘立柱の城門で、通路床面に大きな石を敷き、床面と城門前面に2m近い段差を持つ(懸門)ことを特徴としています。
西門は、南門と同規模の大型の城門で間口3間(12.3m)、中央一間を通路とし、2間の奥行をもち、12本の柱で上屋を支えます。柱は一辺最大60㎝の角柱を2mほども埋め込んでいます。
本柱に合わせたくり込み、方立柱穴、軸摺穴、蹴放しが一体的に加工された門礎をもつのは、鬼ノ城のもののみです。
西門は日本最大の古代山城大野城の大宰府口城門(間口8.85m)をしのぐ、壮大堅固な城門です。
平成19年3月 総社市教育委員会
復元過程についての説明板も。
西門の復元
西門跡は、きわめて良好な状態で残っていました。
12本の柱の位置と太さ、埋め込まれた深さ、各柱間の寸法も正確に知ることができ、また通路床面の石敷や石段、敷石もよく残っていたので、城門の規模と構造を具体的に知ることができました。
そこでこれらの資料をもとに、関連資料を参考にし、戦闘の場としての機能を考慮して三階建ての城門に復元しています。一階は通路、二階は城壁上の連絡路、三階は見張りや戦闘の場としての機能を持つものです。屋根は調査時にも瓦は出土していないので、板葺きにしています。
古代山城の城門の復元例としては、日本で初の事例です。
平成19年3月 総社市教育委員会
城内側からみた西門。
上へあがっての見学はできない。
西門から続く敷石と板塀。
舗装路のように石が敷かれている。
説明板によれば「通路としての役割もあるものの」、城壁が雨水で壊れないようにするために敷かれたようだ。
敷石
鬼ノ城では、城壁の下の面に接して板石を多数敷き詰めています。幅は基本的に1.5m幅で、場内側の広い所では5m幅になる所もあります。
敷石は多くの区間に敷かれており、総重量は数千トンにもなります。
この石畳のような敷石は通路としての役割もあるものの、敷石の傾斜などからみて、もともとは雨水等が城壁を壊すのを防ぐことを目的としたものと考えられます。
敷石は、日本古代の山城では鬼ノ城にしかなく、朝鮮半島でも数例知られるだけの珍しいものです。
とくにこの区間の敷石は鬼ノ城でも見事なところです。
平成21年3月 総社市教育委員会
カーブの先にもずっと続く。石の総重量は数千トンとのこと。気が遠くなる量。
板塀が途切れた先の眺望。
南東方向のズーム。左の建物が岡山郵便局と双葉運輸。その右後ろの丘の右側、画面中央部にテクノパークの建物があるのでその後ろの丘、木が疎に生えている丘が造山古墳後円部のはず!(鍵穴形は確認できず)
振り返っての西門。
城壁の外側へ階段を降りてみた。
高くそびえる土の壁。高さは6mも。
城壁の説明板。
城壁
鬼ノ城は、頂上部から斜面に変わるあたりに鉢巻をしめたように2.8㎞にわたって城壁が築かれています。
城壁は直線を基本とし、多少の高低差はあるものの、下幅約7m、上幅約6m、高さ約6mの規模をもち、城壁で囲まれた城内面積は約30haに及ぶ広大さです。
城壁の大部分は、土を少しずつ入れて突き固めた”版築土塁”で、要所の6ヶ所には高い石垣を築いていますが、基本的には土城です。
また城壁の上面には板塀がめぐらされており、城壁の高さと一体となって攻略の難しい一大防御壁となっています。
ここに版築土塁・高石垣・水門があり、城壁の特徴をよく示している区間です。
平成21年3月 総社市教育委員会
版築工法で築かれていた。
土で復元した土塁で、崩れる状況も観察されている。
外から見上げる城門が大迫力。
独特のサインは楯を表しているのでしょうか?
中央の通路は通れるようになっている。
振り返っての土壁。
最初に立ち寄った”学習広場”
百舌鳥(?)の声が響き渡っていた。
門の中から西方向。
帰路、道路沿いの小さなダムを。