旧華頂宮邸は竹林で人気の報国寺がある谷戸の奥に立地する。
鶴岡八幡宮から東に向かう道を20分ほど歩く。狭い歩道を通ったが、歩道のない箇所もあったので徒歩の場合は脇道を推奨。
歩道は滑川の上に設置されていたが、川には鯉が群れていた。
報国寺入口の信号から右へ枝道を入って300mほどで到着。
前回は春に訪ねたが、見学は庭園のみ。
今回は玄関が開いていて、多くの見学者で賑わっていた。靴を袋に入れて用意されたスリッパに履き替える。
順路どおり、玄関ホールの左の部屋へ。鎌倉市にある様々な古い建築(文化財)の解説があった。
こちらは当建物の解説。昭和4年の築で、神奈川県の戦前の洋風住宅建築としては鎌倉文学館(旧前田侯爵別邸)に次ぐ規模になるそうだ。
旧華頂宮邸
1沿革
旧華頂宮邸(きゅうかちょうのみやてい)は昭和4年春、華頂博信(ひろのぶ)侯爵邸として建てられました。華頂家の沿革から、通称的に旧華頂宮邸と呼ばれています。当初から常住の住宅として用いられたといわれていますが、華頂夫妻が住まわれたのは数年のみで、その後、たびたび所有者が代わり、平成8年5月に市が取得しました。戦後の接収もあったと思われますが、侯爵邸当時、諸室がどのように使われていたかなどを含めて詳細は不明です。2建築的特徴
旧華頂宮邸は、神奈川県の戦前の洋風住宅建築としては鎌倉文学館(旧前田侯爵別邸)に次ぐ大規模なもので、戦前の洋風住宅建築を代表するものとして評価されています。
外観は、西洋民家に見られるハーフティンバースタイル(柱、梁などをそのまま外部に現し、その間の壁を石材、土壁で充填したもの)で、極めて整然としていて古典的ですらあります。
北側玄関側にファサード(建物の立面)は凹凸、壁面模様もあってピクチュアレスク(ロマンチックな絵の題材になりそう)な感じを与え、南側庭園側ファサードは幾何学式庭園と相まって端正で厳然としています。
多くの部屋にはスチーム暖房用の大理石のマントルピースが設置されていて、当時を偲ばせます。また、広い玄関ホール・階段室が、この建物の最も魅力的な空間の一つともいえますが、創建後、幾度か改装が行われており、特に壁などの内装は、当初のものから大分変えられているようです。建築物の概要
建設年:昭和4年(1929)
設計者・施工者:不詳
構造:木造3階建て、コンクリート布基礎、洋小屋組
敷地:約4500㎡
屋根:銅板一文字葺き切妻
外壁:木骨モルタル塗り、一部タイル貼り建物公開:春・秋に年2回開催
華頂宮家の解説。伏見宮家の分家にあたる皇族だったが、明治元年に勅命により復飾(俗世間に戻ること)して一家を創し、知恩院の山号「華頂山」にちなんで華頂宮となった。
吹き抜けホールをぐるりと巡る階段があった。
床の意匠も凝っている。
踊り場から上方を。
舞台装置のような雰囲気の突き出し部。
スチーム暖房の吹き出し口でしょうか。
その上部の大理石には、華のような模様があった。
手の込んだ壁面処理。
アーチが平行する天井。
ホールの上に架けられた橋のような廊下を伝う。
二部屋通り抜けて2階南側の部屋。4部屋並びの中央右側。
大理石のマントルピースが据えられる。中はスチーム暖房。
庭の眺め。
4部屋並びの中央左の部屋も豪華だった。
その部屋からの庭の眺め。
ベランダへ出るドアもあった。
一番西の部屋には畳が。
ここにもマントルピースがあり、かつては洋室だったようだ。
中の廊下を進むと、もうひとつの階段。こちらは昇降禁止。
2階中廊下の北側の和室。
2階の北側に面した部屋。
部屋の一画には造り付けの洗面台が。
上記と接続する寝室(?)
外のモミジはまだ緑。
一階の南側には3つの部屋が並ぶ。東側の部屋のマントルピース。
庭に面してサンルーム的な張り出しが。
中央の部屋のマントルピースが最も立派だった。
飾られたバラが似合う。
そこから振り返った東側。奥の右にサンルームがある。
一番西側の部屋は食堂のようだった。
ボランティアの方々に淹れたいただいたコーヒー、おいしゅうございました。
家具も古そうでしたが、座らせていただきました。
窓側には作り付けのソファ。
中央の部屋が出口になっていた。
左の小屋根が食堂の部屋ですね。
庭園は幾何学的なフランス式。