墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

不動山古墳 群馬県高崎市綿貫町

群馬の森で博物館・美術館を見学した後は、 北に1㎞の場所にある綿貫観音山古墳を目指した。徒歩で20分の道のり。

 

綿貫町の交差点を左折して例幣使街道に入り、観音山古墳への枝道へ入るところに上州綿貫不動尊があった。

事前にチェックしていなかったが見るからに墳丘。

 

近寄ると説明板が。

不動山古墳と綿貫古墳群
綿貫古墳群は、南から岩鼻二子山古墳、不動山古墳、普賢寺裏古墳、綿貫観音山古墳の4基の前方後円墳と、これらの周囲に分布する円墳群から形成されています。
現在岩鼻二子山古墳は削平されて存在しませんが、巨大石棺がある100m級の不動山古墳、その北方に70m級の普賢寺裏古墳、2基の円墳、そして国指定史跡の100級の綿貫観音山古墳が続きます。
綿貫古墳群の4基の前方後円墳は、普賢寺裏古墳を最初として、その後は不動山古墳→岩鼻二子山古墳→綿貫観音山古墳の順番に造営されたものと思われます。
この古墳群は4基の前方後円墳を主墳として5世紀中頃から形成され、6世紀後半の綿貫観音山古墳へと続き、その時代に同一系譜に連なる強大な豪族がこの地に居たことを証明しています。
なお、不動山古墳は平成4年3月2日、高崎市指定史跡になっています。

 

墳頂への石段。

 

石段脇に実測図付きの説明板もあった。

高崎市指定史跡 不動山古墳
古墳時代の5世紀後半に作られた前方後円墳です。
全体の墳形が良く残っており、まわりに濠もまわっていたことが分かります。西に前方部、東に後円部があり、北側のくびれ部には方形の造り出しを作っています。
後円部の上に後の時代に不動尊をまつっていることから不動山古墳と呼ばれています。
後円部は作られた当時より大分削平されているようで、舟形石棺の身部が残されています。蓋は不明です。おそらく後円部に遺骸を納めた主体部があったのでしょう。
不動山古墳は、観音山、普賢寺裏、岩鼻二子山古墳とともに綿貫古墳群の一角を占め、この地域に大きな勢力をもっていた豪族がいたことを示しています。
昭和37年から39年にかけての調査で埴輪、鉄製鍬先、土師器が出土しています。
全長94.0m、後円部径54.0m・墳頂径18.0m・高さ10.1m、前円(方?)部前幅55.0m、高さ(9.1m)、くびれ部幅36.5m
高崎市教育委員会

 

階段の踊り場で右に向かう小道が。後円部のテラスだったところのようだ。

 

墳頂の社に参拝。

 

後ろに回ると、!

 

屋根の下に石棺が。解説を読む前に来たので、発見気分で興奮気味。

 

高札風表示板。

 

舟形石棺の身部で蓋の行方はわからない。

 

振り返りながら社殿を一回りした。

 

墳裾にいらした地蔵様。

 

隣の駐車場から。右は例幣使街道。

 

上記の右(北)側に回っていくと、後円部の周溝が残っていた。

 

帰路にバス停から撮った不動山古墳。かつては右奥の後円部から緑の田んぼの向こうまで前方部が伸びていたはず(圧縮効果になってしまったが全長は94m)

 

バス停の南側は「量子科学技術研究機構」の敷地。かつてはこの先250mの左手に岩鼻二子山古墳が存在した。