墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

おいらせ阿光坊古墳館 青森県上北郡おいらせ町阿光坊

阿光坊古墳群を堪能した後、八戸市街に戻ろうと国道を進み始めたとき、「おいらせ阿光坊古墳館」の看板に気が付いてあわてて立ち寄った。

 

あやうく見過ごすところでした。

 

おいらせ阿光坊古墳館は平成29年3月に出来たばかりの施設。

 

入館料は一般200円。阿光坊古墳群について、出土品やジオラマ、映像を通して詳しく学べる素晴らしい施設だった。

https://www.town.oirase.aomori.jp/site/kofun/tenjifloor.html

 

先ほど訪ねた現地での位置関係がよくわかったジオラマ。左が天神山遺跡と阿光坊遺跡、右が十三森(2)遺跡となる。墳丘の数は十三森(2)遺跡の方が多い。

史跡阿光坊古墳群模型 1/500
史跡阿光坊古墳群は、阿光坊遺跡・天神山遺跡・十三森(2)遺跡に所在する墳墓の総称です。発掘調査では、阿光坊遺跡で21基、天神山遺跡で39基、十三森(2)遺跡で65基の計125基の末期古墳が確認されており、古墳の大きさもさまざまです。この模型は、古墳の造成が終焉を迎えようとしていた9世紀後半・初夏の阿光坊古墳群を推定再現したものです。

 

古墳の、3分の1縮尺での復元模型も。

末期古墳 推定復元模型 縮尺1/3
この模型は天神山遺跡に位置する「T2号墳」の形状・寸法を参考に縮尺を1/3で表現した末期古墳の推定復元模型です。埋葬施設の詳細がわかるように墳丘の盛土を削り取った状態にし、木棺は「四辺埋め込み式木棺」を参考に再現しています。棺内には実際のT2号墳と同様に副葬品の蕨手刀と刀子を配置しています。

 

埋葬部は地下で、その上に墳丘を盛っている。

 

阿光坊古墳群についての解説は、現地のものより若干詳しい。

史跡 阿光坊古墳群
阿光坊古墳群は、阿光坊遺跡・天神山遺跡・十三森(2)遺跡に所在する墳墓群の総称です。十和田湖に源を発し、青森県の南東部と東流する奥入瀬川下流域左岸の標高40mほどの段丘上に位置し、太平洋岸から約7㎞内陸に入っています。
昭和63年(1988)から平成26年(2014)まで断続的に14次の発掘調査が行われました。その結果、125基の末期古墳と8基の土壙墓が見つかっています。それらは、7世紀の初めころから9世紀の終わりころまで継続してつくられたものと考えられます。
阿光坊古墳群の末期古墳は直径4mから8.9m、高さ1m程度の円墳であり、その外に幅1m前後の周溝がめぐります。周溝は全周するものと、埋葬部の主軸方向の一端が橋状に掘り残されているものがあります。埋葬部は、長方形の穴に、据え付ける棺を設置し、蓋をするのが基本的な形です。周溝を持たない土壙墓は、末期古墳の埋葬部と同様の構造を持つものも含まれますが、規模が小さい傾向が見られます。
出土遺物は棺内に納められたものと、周溝や棺の蓋の上・墳丘に供えられたものに分けられ、前者には大刀・蕨手刀・鉄鏃・鎌・斧・玉類・耳環・釧などがあり、後者には須恵器・土師器を中心に、馬具や鋤・鍬先などがあります。
大規模で残りが良いため、平成19年(2007)7月26日、国史跡に指定されました。

 

ここでは「末期古墳」について、時代やエリアを限定した定義になっていた。

末期古墳とは
末期古墳は、飛鳥時代より平安時代にわたり宮城県北から北海道石狩低地帯にかけて分布する小円墳です。
日本の他の地域の古墳とは、つくられた時期や特徴が異なることから、特に「末期古墳」と呼ばれています。
埋葬部が岩手県江釣子古墳群のような石室タイプと、阿光坊古墳群のような土壙タイプに分けられます。石室タイプは北上川中流域に集中します。両者は規模や出土遺物に共通性が見られます。
阿光坊古墳群は、土壙タイプの中で古墳の数が最大規模のものであり、継続期間は両方合わせて最長です。また、末期古墳は低墳丘であるため、開墾により破壊されるものが多いなか、この古墳群は、墳丘が60基以上残っているなど、保存状態が良好な点も特徴のひとつです。

 

阿光坊遺跡(A11・A1・A3・A6・A9)からの出土品と詳細な解説。

 

A1号墳の周溝部から出土した見事な高坏。7世紀中~後葉。

 

天神山遺跡(T2・T3・T4・T5)と十三森(2)遺跡(J21・J10)からの出土品。

 

T3号墳の埋葬部からは美しい錫製釧(すずせいくしろ)が。8世紀前半、右は複製品。

 

被葬者を蝦夷(えみし)と言い切っていいものかどうかは、蝦夷の定義にも関わるのだろう。

阿光坊古墳群の被葬者は、どんな人だったのでしょうか。実のところ、自らのことを記した記録は皆無であり、言語・宗教・風俗など、この地に暮らした人々を書き表したものは全く知られていません。
一方、朝廷が記した史書のなかで、北東北や北海道の人々は蝦夷(えみし)と呼ばれ、中央とは異なる言語を話し、五穀を持たない狩猟民であり、体や顔が変わっているとされています。髭が蝦(エビ)のようなという解釈もあるようですが、実態を示しているのか定かではありません。
発掘調査でわかっていることは、ピアスやブレスレットをし、勾玉やガラス玉のネックレスをしていることと、絹や麻の服を着ていたらしいこと。弓や矢を持っていること。では、服の色は、形は…。大変難しい問題です。
日本列島北部には、多くの古代遺跡があり、さまざまな出来事があったろうことが大地に刻まれています、しかし、わからないことが多いのも事実です。

 

これまでに出土した刀は10振りで、そのうち柄頭が明らかなものが5振り。蕨手刀以外にも円頭大刀や方頭大刀が見られるそうだ(どれも木芯は腐って漆の被膜が残ったもの)

 

蝦夷の生業と生活を紹介するコーナー。

蝦夷による馬の生産
阿光坊古墳群からは馬の動きを制御する鉄製の轡が5点出土しています。また、同じく出土している鎌や、馬のエサを刈り取るために使用した可能性があります。
集落遺跡の根岸遺跡やふくべ(3)遺跡の建物跡から馬の歯が出土していて、古代のおいらせ町には馬がいたことがわかっています。
多くの末期古墳からも轡が出土し、さらには馬の墓が見つかっている青森県丹後平古墳群もあり、末期古墳をつくった人々は馬産とかかわりが深いと考えられています。
この辺りは馬が好んで食べるササやススキなどが生育しやすい黒ボク土と呼ばれる土壌が発達していて、牧草が豊富な地域です。また、降雪量が少ないことも放牧に適していたのでしょう。
こうしたことから、阿光坊古墳群をつくった人々は馬産を行っていただろうと考えられます。 

 

律令時代と蝦夷」の解説。

阿光坊古墳群がつくられ始めた飛鳥時代以前は、地方支配の方法として国造制(くにのみやっこせい)という制度があり、各地の有力者が国造となり始めていました。大化の改新によって国造が治めたクニが解体して、郡の前身である評(こおり)が置かれました。しかし、そうしたことが行われたのは新潟県の北部から宮城県南部をおおよそ結んだ線より南であり、それより北は蝦夷(えみし)の地と中央からは呼ばれました。支配領域が北上し、新たに支配した地域には城柵がつくられ、郡が設置されていきます。9世紀初めには岩手県盛岡市の志波城まで北上します。太平洋側では、それより北には古代に城柵も郡も設置されず、最後まで蝦夷の地であったと考えられます。
阿光坊古墳群はその地に所在し、蝦夷とはどのような人々であったかを考えるうえで欠くことができない遺跡と言えます。

 

展示室を出て2階に上がると、新幹線が見える「展望室」

 

目の前には奥入瀬川。晴れていれば八甲田山系も見えるようだ。

 

阿光坊古墳群があるあたりも。中央奥の木立辺り。

 

展望室の手前に興味深いパネルがあった。

この辺り・おいらせ町では縄文早期~前期初め頃の遺跡が見つかるものの、人々が最も暮らしやすかったとされる縄文時代前期中頃~中期の遺跡が無く、それには縄文前期中頃(約5900年前)の十和田湖中湖の噴火が影響したと考えられるそうだ。
おいらせ町丘陵部で、軽石だけで20㎝の層厚が観察されるとのこと。
その後、7世紀代に再び人々が多く暮らし始め阿光坊古墳群も築かれるが、915年に再び噴火に見舞われる(過去2000年内での列島内最大の噴火)

「それ以降の古墳は今のところ見つかっていないが、竪穴建物跡は集落遺跡でいくつか見つかっていて復興に向けた歩みはあったようだ」と記されている。

 

ちなみに、

青森市三内丸山遺跡縄文時代前期中頃~中期末(約5900~4200年前)

一戸町の御所野遺跡は縄文中期後半(約4500~4000年前)

鹿角市大湯環状列石縄文時代後期(約4000年前)

八戸市の是川遺跡は縄文時代を通して(縄文前期・中期の一王寺遺跡、縄文中期の堀田遺跡・縄文晩期の中居遺跡)

 

大規模自然災害のたびに暮らしやすい場所に人が集まっていったということもあるのだろう。