今回はGW中に訪ねた川越市立博物館。
企画展「日本最大の上円下方墳 山王塚古墳~上円下方墳の謎に迫る~」を見に出かけた。(本展は5月12日までで、すでに終了しています)
初めて訪ねた博物館だったが予想以上に大きな建物。文化財に対する川越市の力の入れ具合が感じられた。
企画展は山王塚古墳そのものの詳しい調査資料のみならず、同型(上円下方墳)との比較や、東山道武蔵路との関係など、非常に興味深い内容が盛り沢山だった。
展示室内では撮影禁止。
展示室外に掲示されていた山王塚古墳の実測図。
古墳時代終末期の7世紀は、豪族が各地を支配していた古墳時代から天皇中心の国造りが行われた奈良時代への過渡期(飛鳥時代)で、前方後円墳が姿を消して中小の円墳が主体となった時代。山王塚古墳はこの時期に、全国で10基程度しか確認されていない形状・上円下方墳の最大規模で築かれている。(図録より)
図録の章立て。企画展での展示構成に沿っていた(はず)
第Ⅰ章 前方後円墳の終焉と終末期古墳
第1節 山王塚古墳出現前夜~入間地域の終末期古墳
第2節 武蔵の終末期古墳
第Ⅱ章 上円下方墳の出現
第1節 山王塚古墳
第2節 各地の上円下方墳
第Ⅲ章 上円下方墳が造られた頃の武蔵国~激動の飛鳥時代から奈良時代へ
第1節 「豪族と古墳」から「地方官人と官衙」へ~律令制による国づくり
第2節 武蔵と上円下方墳
附篇 文字資料にみえる入間郡に関連した譜代氏族~山王塚古墳の被葬者像を求めて
現地はこれまでに2回、説明会開催時に訪ねた(直近の回は不参加)
山王塚古墳の石室は、まだ発掘調査に及んでいないが、これまでの調査や地下レーダー探査などから、胴張の玄室、直線的な前室と羨道、ハの字状に開く前庭部から成る複式構造の横穴式石室で、全長約14m(前庭部含む)と推定できるそうだ。
その平面形状は、同じく東山道武蔵路に近い場所に立地する武蔵府中熊野神社古墳(7世紀中頃)や、調布の天文台構内古墳(7世紀後半)、八王子の北大谷古墳(7世紀前半)と良く似ていることが示されていた。
展示では文献資料から被葬者の人物像の考察も行われていて、古墳時代とその後の時代とが一続きになっている様子(当然のことはありますが)が感じられた。
前出の説明会時に見た”版築工法”について、自分は古墳時代前期から墳丘構築に用いられた工法だと誤解していたが、寺院建築に由来する技法として後から導入されたことを初めて知った。(過去のエントリで誤って書いてしまったところがあると思うので、時間を見つけて修正させていただきます)
一方で、これまでは1500年を経ても土の墳丘が形や高さを保っているのは版築で固めたからだと思っていたので、新たな疑問が湧きました。
入館料は常設展込みで一般200円。公式サイトに掲示されたパンフの裏面にいくつか写真がついています。
http://museum.city.kawagoe.saitama.jp/ippan/panf/31-03-16a.pdf
川越市立博物館は常設展示も大変充実。
ちょうど学芸員の方による解説ツアー中で、とてもわかりやすい説明にしばらく聞き入った。
幕末期の川越のジオラマ(1/500)
濠で囲まれた城、広い寺、武家屋敷エリア、商家のエリアがある。城下町らしく十字路(交差路)がないのが特徴。
明治35年頃の中心街(1/100)も。
古谷本郷の灌頂院に伝わる木造薬師如来像(複製:平安末期~鎌倉初期)
古墳時代も埴輪や副葬品が並ぶ。
川越では4世紀末に三変稲荷神社古墳が仙波に造られたのにはじまり、6世紀には下小坂・的場・南大塚・仙波など各河川流域に前方後円墳を中心とした古墳群が形成され、7世紀の後半の山王塚古墳まで続いた。
南大塚4号墳の馬形埴輪、女子埴輪、円筒埴輪など。
手前の2つは、三変稲荷神社古墳からの壺形埴輪。
「つぼ」から「円筒埴輪」への変遷を示す図。
横穴式石室の構造を示す展示(石室長軸方向断面)
三変稲荷神社古墳(古墳時代前期)の副葬品、鏡や腕輪(石釧)
現地を訪ねたときはそんな価値を認識していなかった三変稲荷神社古墳。仙波古墳群に含まれる。
川越市浅間神社古墳出土の環状鏡板付轡(馬具)
浅間神社古墳は、同じく仙波古墳群の母塚だろうか。Wikipedia(仙波古墳群)には出土品は特に伝わらずとありますが…
牛塚古墳出土の装飾品~耳環、ガラス玉、管玉、切子玉。
的場古墳群中の牛塚古墳へは昨年訪ねた。
(伝)岸町横穴墓出土の横瓶(奈良時代)
縄文後期の丸木船は、川越市老袋の入間川左岸の出土品。
市内で出土した縄文土器や石棒。
弥生時代の展示。市内には方形周溝墓もある。
中世・近世の展示もボリュームがあるが、最後には蔵の展示もあった。原寸大の構造模型。
断面図。壁の塗り方がわかる。
長い廊下は川越城本丸御殿をイメージしている?(この後に訪ねました)