前回の平地2号墳の前の道を西に500mほど進む。
元善光寺に至る手前で右折し、山の上の座光寺小学校を目指す。
元善光寺寄りの公園からは桜があふれ出していた。
ちなみに駅名にもなっている元善光寺は長野の善光寺の阿弥陀如来が元あった寺。
推古天皇十年に当地の本多善光(ほんだよしみつ)公が国司の供をして都に上がった際に難波の堀で阿弥陀如来様にめぐりあい故郷でお祀りしたのが元善光寺の起源で、その後に阿弥陀如来の御告げで長野に遷ったが善光寺の名は善光公に由来するとのこと。古来長野の善光寺と飯田の元善光寺と両方お詣りしなければ片詣りと云われるのだそう。
寺の両脇を歩いていながら参拝しそこなってしまったので、次の機会で片詣りを解消したい。
”普通の道”も桜のトンネル。
その先のカーブ。
振り返ると、二本の桜が会話している感じでした。
道の傾斜がきつくなる。桜は別の個体。
通学・通園路とあるので子どもたちは毎日上り下りするのだろう。標高差は100mにもなる。右折したポイントの標高は450m、小学校は標高550m。
坂上の墓地からの雄大な眺め。
墓地にも桜の高木が。
対岸の山にも桜。位置からして自生でしょう。
墓地におられた観音様。
さらに上ると小学校。フェンス越しに。
校門のそばに「北本城(きたほんじょう)城跡」の解説板が。
座光寺には合わせて上野城と呼ばれる上野北本城と上野南本城があり、小学校や寺があるこの辺りは上野北本城の城跡となるそう。室町時代応永年間(1394~1428)以前から座光寺氏およびその支族の居を構えた城で、武田氏の伊那侵攻以降は市田郷松岡氏の支配下となっている。
古墳にかかわる記述もあった。
座光寺小学校校地造成のために曲輪や中央部の空堀などは失われましたが、造成工事に先立ち発掘調査が行われました。小学校周辺には西の堀(堀の川)、堀の川沿いの大きな土塁、北・西曲輪を取り巻くように大きな空堀と土塁が残されています。
東南端に古墳があり、堀を隔てて出曲輪や堀切などがあり、南面の守りとなっています。
古墳は、朝鮮渡来人の古墳で、6世紀頃造られた小規模の前方後円墳です。現在の古墳は4mほど南東に移動して石室が復元されたものです。
歴史に学び地域をたずねる会
平成25年2月20日
図面には校舎の南側に古墳も示される。
校門の北側の土塁跡にも満開の枝垂桜が。
座光寺小学校は日曜日で休みだったが、地元の少年野球チームの試合が始まるところで賑わっていた。
建物の南側へ回っていく。
桜の後ろにそれらしき土盛りがあった。
前出の説明には「4mほど南東に移築」とあるので、元は校舎の位置に築かれていたのだろう。
冊子「飯田は古墳の博物館」によれば、北本条(きたほんじょう)古墳は墳丘長24mの前方後円墳。後円部径16m・高さ2.5m、前方部幅推定13m・高さ2.3m。築造時期は6世紀初頭。
昭和56年度、飯田市立座光寺小学校建設時に調査・移築され、下記が判明した。
最初は山城の土塁と思われていましたが調査の結果前方後円墳と判明しました。飯田の高位段丘上にある数少ない前方後円墳です。土塁として改変されたため、石室の天井石の多くは撤去されていました。石室の形態は畦地1号墳や高岡第一号と同様で、出土遺物からこれらに先行する古墳であることがわかりました。
南側に開口部。
意外に奥行がある。
フラッシュで。
中間あたりから奥壁を。天井石も自然な形に復元(?)されている。
側壁は高岡第1号古墳や畦地1号古墳と同様で、1段目に大きな平石を立ててその上に扁平な石を一段平積みする。
朝鮮半島系の、竪穴系横口式石室の系譜をひくそう。
奥壁前から開口部。
フラッシュで。
小学生たちはここで遊んでいるのだろうか。
飯田市上郷考古博物館のサイトにて発掘調査中の元位置の墳丘や石室の写真を見ることができる。
https://www.iida-museum.org/kouko/lib/new_page_46.htm
見学後校門を出ると、すぐ西隣に「あそびのもり」との表示があった。
グーグルマップには現れない道だったが、下に続いていそうなので降り始める。
左上が小学校。山城が築かれた理由が納得できる崖。
ちょっとした登山(下山)。高さ100mはマンションだと30階建て程。
木々の隙間からの飯田盆地。
元善光寺の裏手に到着(寺は写真範囲より左)
右奥に顔を覗かしている「舞台桜」へ向かった。