墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

山王熊野神社 善慶寺・新井宿義民六人衆墓 東京都大田区山王

前々々回のつづき、山王熊野神社に参拝。

 

社殿手前の左側に狐碑(庚申塔左側の石碑)、手書きの解説は少し怖い。

 

ふり返ると神楽殿

 

境内を覆う大木は、西隣の台地からも目立っていた。右下に狛犬

 

狛犬の先は、見事な斜面。

 

中腹の鳥居で右に向かう道。

 

大量の溶岩が設置されているのは、富士塚の名残りか。

 

来た道をふり返って。 

 

階段下の鳥居から。右にも別の階段がつく。 

 

鳥居のすぐ前には善慶寺の本堂。

 

本堂を正面から。

 

さらに進んで、山門の前から。

 

山門脇に「東京都指定旧跡 新井宿義民六人衆について」との筆書きが。

 

境内の墓地にそれはあった。 

東京都指定旧跡 新井宿義民六人衆 墓
所在地:大田区山王3-22-16 善慶寺
指定:昭和6年12月2日
江戸時代の荏原郡新井宿村は、家康の関東入府から幕末にいたるまで、旗本木原氏の知行地であった。四代兵三郎重弘の時代、延宝元年(1673)の旱魃、翌年の多摩川の氾濫による洪水や長雨などの天災で農民の困窮は甚だしく、過酷な年貢収奪に耐えかねた村民は、十九ヶ条の訴状(東京都指定有形文化財新井宿村名主惣百姓等訴状写し」)を提出して年貢の減免を願い出た。この訴えは黙殺されたため、重立百姓六人は、将軍家綱に起訴しようとしたが、決行直前の延宝5年(1677)1月2日密告により捕らえられ、神田橋門外にあった木原内匠邸(現在の千代田区内神田1-2~4)で処刑されたといわれている。
新井宿義民六人衆による起訴事件は、村人の中に語り継がれ、延宝8年(1679)義民と縁故筋にあたる間宮藤八郎が、両親の墓を建てると称して六人の法号を刻んで密かに造立したのがこの墓石である。正面に父母の、裏面に六人の法名が刻み込まれており、台石の四方に花立と水入が取り付けられ、その間をくり抜いて連結し、一箇所に水を注げば四方に行き渡るように工夫されている。近年の寺域整備により改葬され、その際出土した甕棺と義民六人衆の遺骸引取りの際に使役した馬の飼葉桶は境内に展示公開されている。平成13年3月31日設置 東京都教育委員会

 

石碑に参拝。その背後には、古びた木造の集会所(?)が。 

 

別のルートを登って再び拝殿前へ。

 

拝殿脇の鳥居から境内を出て、東側の階段道を下った。 

 

少し降りてふり返って。

 

斜面中腹を縫うような道に惹かれて進む。

 

途中に板が打ち付けられた廃アパートがあった。

 

玄関は洒落た意匠。

 

東隣には「根岸地蔵」がおられた。