墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

川端龍子記念館・龍子公園 東京都大田区中央

前回のつづき、熊谷恒子記念館から南東に、緩く左右にくねる道を歩いていくと龍子記念館に行き当たる。

 

日本画家の川端龍子(かわばたりゅうし)については、向かいの「龍子公園」門前に詳しい解説板がある。

臼田坂下に画室を新築した 川端龍子(かわばたりゅうし:1885~1966)
日本画の巨匠川端龍子は、明治42年24歳の時、牛込矢来町より入新井新井宿に移ってきました。この頃はまだ作品を認められてはいませんでしたが、挿絵を描いたり、国民新聞社に勤めたりして生計を立てていました。
大正2年に渡米した際ボストン美術館日本画に魅せられ、龍子は油絵から日本画へと志向の転機を決意します。翌3年には、処女作「観光客」が東京大正博覧会に入選し、日本画家として立つきっかけを摑みました。その後はつぎつぎと作品が認められ、大正9年現在の臼田坂下に住宅と画室を新築し、ここを御形荘(おぎょうそう)と名付けました。
画人生涯筆一菅 龍子、という句があるように画業に専念する人でしたが、唯一の趣味としての建築は、龍子持ち前の器用さと熱心さを反映して素人の域を脱するものでした。龍子記念館、屋敷内の建築は全て龍子の意匠によるものです。参考文献 集英社現代日本の美術」 大田区 

 

記念館建物は、地面から2mほど高い位置に床が造られていた。

 

別の角度から見た記念館。太い青竹(孟宗竹)の垣根は今年になって久々に(10年ぶりぐらい?)置き替えられたそうだ。

 

記念館建物には、去年まで使われてきた竹垣が立てかけられていた。

 

側面から見た建物。凹型に一続きの、大きな展示室がある。

上記説明板の内容。

龍子草苑
龍子記念館は、川端龍子が自身の文化勲章受賞と喜寿を記念して、昭和38年(1963)6月6日に開館しました。記念館の設計は自らが行ない、各所に龍子の趣向が凝らされています。
「龍子草苑」と名付けられた中庭には、別荘・青々居のある修善寺桂川で自ら選んだ石が据えられ、傍らにはススキ、イタドリ、シダなどの草花が植えられています。
また、龍子は自然のままの姿の庭を好んだため、草苑も当初の姿を保つようにしています。大田区立龍子記念館

 

入館料一般200円。このときは名作展「古典と革新 画壇に挑みつづけた男」が開催中(2019/4/14まで)

横幅5~7mの大作が5点あって圧倒された。

下記の公式サイトによれば、川端龍子は「床の間」を飾ってきた旧来の日本画に対し、「会場芸術」を目指し、画壇の風雲児と呼ばれるほど革新的なテーマに取り組んだ一方で、古典的なテーマにも並行して挑んでいる。

https://www.ota-bunka.or.jp/facilities/ryushi/latest_exhibition/tabid/225/Default.aspx

 

記念館と道を隔てた北側に大きな屋敷があったが、そこが川端龍子の旧宅・アトリエであったことは行って初めて知った。記念館開館日に一日三回見学ツアーが実施されていることも(10時・11時・14時)

こちらへ来たのが13:45ぐらいだったので、14時の回に参加することができた。

 

学芸員の方の先導で門の前へ。敷地内の河津桜は五分咲きぐらいだった。

 

門があくと、竹垣のアプローチ。

 

途中左手に池が。

 

終戦直前に空爆を受けた跡だった。

爆弾散華(ばくだんさんげ)の池
昭和20年(1945)8月13日、米軍機の爆撃により龍子旧宅は全壊に近い被害をうけました。その体験から制作された作品が「爆弾散華」です。「爆弾散華」には、食糧難の中で栽培された野菜が、爆風によってもの悲しく散っていく光景が描かれています。
終戦後の10月に龍子は第17回青龍展を開催し、この作品を出品しています。また、爆撃跡の穴からは水が湧き出してきたため、龍子の発案によって「爆弾散華の池」として整備されました。
大田区立龍子記念館


玄関前からふり返って。

 

玄関は外から見るだけ(見学全体も)

 

そこここに竹材が使われる。 

 

玄関の右にある通路を通って、まずアトリエ棟へ向かう。

 

アトリエ前の手水鉢は、丸四角三角が重なる意匠。

画家は、いつも画室に入る前に、ここで精神統一をしたそうだ。

 

画室の解説板。

御形荘と画室
大正9年(1920)川端龍子新井宿子母沢(現在地)に転入しました。当時この界隈は田園地帯で、春には一面に母子草(ごぎょう。おぎょうとも)が咲くことから、龍子は新居を「御形荘」と名付けました。
昭和13年(1938)には、自らの設計により画室を新築します。大作主義を主張していた龍子の制作に見合う広々とした画室は「爆弾散華」(1945)に描かれた空襲の爆風にも耐え、当時の面影のまま残っています。昭和41年(1966)に龍子が没するまで、多くの作品がこの画室から生み出されました。

 

画室は大きな建物だった。

 

西側が大きなガラス面になっている。

 

床の位置が高い。雨戸は無い。この建物にも竹材が多用されていた。

 

天井の高い室内には多くの自然光が射し込んでいた。

 

ふり返っての庭。

 

庭の小道からの画室棟。

 

小道を進んだ先に居住棟。

 

居住棟の端の部屋は持仏堂。

 

俵屋宗達の筆と伝えられる「桜芥子図襖絵」(現在は藝大協力による複製)の中に、奈良・平安期の観音像や明王像などが納められていたそうだ。

 

雨樋も一部竹。

 

井戸や手水に張られた水(そして中の石)がとてもきれいだった。

 

室内の様子。

 

雁行する部屋。

 

その前には大谷石を組んだモダンな雰囲気の池跡(?)があった。

右奥が爆弾散華の池。

内容の濃い、充実のツアーでした。