墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

馬絹古墳 神奈川県川崎市宮前区馬絹

前回につづいて今回も神奈川県指定史跡。

馬絹(まぎぬ)古墳は西福寺古墳から徒歩11分、南西にある別の丘の上に立地していた。

 

住宅地の坂道を降りてまた上る。

 

上った先に古墳公園があった。

 

馬絹古墳公園と刻まれた石。

 

公園には、石に嵌った説明板が5つも。

 

ひとつは周辺の文化財探訪マップ。

 

古墳公園ガイドには、現在は入れない石室内部の写真も。

 

こちらにも写真と実測図。

 

そして詳しい解説。

馬絹古墳(まぎぬこふん)
馬絹古墳は、現状の墳丘の直径が約33m、高さが北側で訳m、南側で約4.5mほどの円墳です。墳丘の周りには幅約3.5m・深さ約1.5m前後の溝がめぐらされています。
この古墳はまずローム層(赤土)まで掘りこみ、遺体を安置する石室を組み立て、その外側に赤土と黒土とを順序良く細かく積み上げてつくられています。また墳丘の表面には、手のひらほどの大きさの河原石が敷きならべられていました。
石室は、全長が9.6mもある大型の横穴式石室で、内部は3つの部屋に分けられています。この石室は、四角に切った泥岩を組み合わせながら、天井に向けて少しずつせばめて積んでいく「持ち送り式」という技法で、丁寧につくられています。そして石が接合する部分には白い粘土が帯のように塗られており、ほかにも同じ白い粘土を使って、まるい形や今では形がはっきりわかりませんが何らかの模様が描かれていたようです。
馬絹古墳がはじめて発掘された時には、すでに遺体は残っていませんでしたが、鉄の釘が発見されていますので、遺体は木でつくった棺に入れられていたと思われます。しかも鉄釘は79本もありましたので、棺は一つだけではなかったようです。ただ、遺体といっしょに置かれていたと思われる品物(副葬品)は盗掘されて持ち去られてしまったようですので、馬絹古墳がつくられた年代などがわかるはっきりした証拠は不足していますが、石室の形やつくり方、設計の方法などから、7世紀の後半ごろにつくられたと考えられます。
これらは昭和46年の発掘調査や平成2年の保存整備調査などによって明らかになりました。そして馬絹古墳は古墳時代の終わりごろの様子を伝える重要な古墳として、昭和46年12月21日に神奈川県の史跡に指定されました。
平成6年3月 川崎市教育委員会

 

川崎市のサイトでも、石室の中からの写真が見られる。

その解説には、奥室の規模は縦・横・高さとも約3mで1尺が29.6cmの”唐尺”で設計されたと考えられ、唐尺の普及は一般的には7世紀中葉前後と考えられているので、馬絹古墳の築造時期も7世紀後半代と推測できる、とあった。

http://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000085.html

 

ちょっと読みづらい「古墳への招待」

 

古墳公園の北側に墳丘があった。後で写真を見ていて、斜面に土嚢が積まれている部分があることを知った。下の写真左側(南向き)に開口していたのだろう。

 

北側から見た墳丘。

 

フェンスが巡っていて近寄れない。正面が南方向。

 

振り返りつつ。

 

すぐ隣は住宅街。

 

近づけなかった寂しさを抱えながら、次の古墳へ向かった。

左側は馬絹神社の境内森であったことを後で知った。

 

 

馬絹古墳の石室は、川崎市民ミュージアムでレプリカ(3分の2サイズ)に入ることができる。(常設展は無料、撮影不可)