前回の北上市立博物館の見学後、みちのく民俗村の建物を見て回った。
小道を上がった先の藁葺き屋根へ向かう。
享保13年(1728)築の旧菅野家住宅は国指定重要文化財。
南部領と境を接していた北上市口内町長洞(旧伊達領)にあった、大肝入という上位村長クラスの農家。伊達領の肝入(村長)以上には苗字・帯刀・門の設置が許されていたとのこと。
建物前の説明板。
茅葺き屋根に雨。
高い天井の土間。中で湿気は感じられなかった。
板の間の天井も高かった。
直前まで人が織っていたような雰囲気。
享保5年(1720)の棟札をもつ薬医門の前から。
山の中腹の小道を奥へ行くと宝珠院。
里におりた山伏が祈祷する”道場”だった。
横の復元石組みは古墳ではなく、即身成仏のための入定窟。
そこから振り返った先には大正期の学校建築。
そのとなりに修復工事中の武家住宅が見えた。
小道の先には旧仙台藩寺坂番所。江戸時代、藩の境界には人馬や物資の出入りを監視する御番所が設置されていた。寺坂番所は元禄3年(1690)の創設。
建物は江戸時代前期の築で、畳敷2室と台所だけの小規模な建物だが、杉材の柱などに武家住宅的な要素が見てとれるとのこと。
外から座敷の様子を。
建物脇には詳細な解説。
振り返って全容を。
そこから谷を下りていくと、これは!
古墳ではなく、博物館にも説明があった領境塚だった。 国指定史跡になっている。
国指定史跡 南部・仙台 領境塚
天正19年(1591)、南部氏は北の方から南へ和賀郡・上閉伊郡まで、伊達氏は南の方から北へ胆沢郡・江刺郡までを領有するようになった。
それまでは郡界についてあまり問題にしていなかったのであるが、両藩が境を接するようになってにわかに境筋が問題になり、事件も各所にたびたびおきた。地元の争いが藩庁の争いになり、幕府へ訴えとなるまで発展した。老中職の立会いで絵図の上へ点を打ち、文書で申し合わせが協定できたのは、寛永18年(1641)12月2日であった。
翌年6月10日から、両藩役人の立会いで、絵図面にしたがって奥羽山脈駒ケ岳から国見山北・五輪峠を経て唐仁村桐ケ浦まで要所要所に百二十余基の大塚とその間に多数の小塚を築いた。さらに重要箇所は挟塚(はさみつか)といって、南部側に1つ、仙台側に1つ、セットにして築いた。
ここは間の沢(まのさわ)と呼ばれ、手前の塚が南部藩側の塚で、谷を境にした向いの塚は、仙台藩の塚である。すなわち挟塚である。
このように国境塚が現存しているところはきわめてめずらしく、わが国の行政史上重要な史蹟である。
昭和58年11月 北上市立博物館
谷筋の反対側に仙台藩の塚があるはずだが、園内にはまだ20棟ほどの建物があるので次の機会とした。
駐車場前にあった村の案内図。この時点で左端の3棟しか見ていない。
奥に山道が続いていて、寛永19年(1642)に築かれた別の挟塚(はさみづか)に行けるが、700mの距離を考えてやはり次の機会とした。
つづく。