墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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北上市立博物館 岩手県北上市立花

前回のつづき。

江釣子古墳群を見学した後の、この日最後の見学先としては、雨も降っていたので北上市立博物館を選んだ。

 

北上川を東に渡って丘を上ると駐車場。その脇に気になる説明板があるので行ってみる。

 

陣ヶ丘という中世からの城跡だった。

陣ヶ丘
この地は陣ヶ丘と呼ばれる古い城跡です。北上川に面した絶壁の地であり、東西約160m、南北約86mの広さに空堀と土塁がめぐらされていました。これは対岸にあった黒沢尻柵(阿部五郎正任の居城)を攻撃するため、源氏が構えた陣の跡だと伝承されています。この戦いは前九年の役と呼ばれた康平5年(1062)の夏のことです。しかし、各地に残る前九年の役の伝承は疑問とされており、陣ヶ丘も源氏の陣とする確証はありません。
空堀の跡から中国の焼物(元代・14世紀)が発見されています。それはかけらですが、陣ヶ丘の時代を裏付ける証拠です。堀に囲まれた面積は約7千㎡で、空堀の幅約5mと小規模です。これは室町時代の土豪(武士)の館跡と同じ位です。
城跡としての陣ヶ丘の特長は、小規模ながら守りの堅い山城であることと、和賀郡(和賀氏の領土)と江刺群(葛西氏の領土)の境目に存在する点にあります。境目といっても和賀氏の領土内だったので、城の役割は葛西氏やその家臣江刺氏の侵入に対する警備が目的と考えられます。それが最も必要とされた時代は戦国時代(15世紀後半~16世紀)です。
和賀氏と葛西氏は天正18年(1590)に豊臣秀吉によって滅ぼされ、和賀郡は南部氏の領土、江刺郡は伊達氏の領土となりました。陣ヶ丘の南側の沢はその境界線となり、今も「間の沢(まのさわ)」と呼ばれています。
また江戸時代には川向いの鬼柳と相去の間に関が設けられ、北と南の交通は大きく妨げされました。陣ヶ丘はそのような江戸時代の藩境を決定する大きな要因だったわけです。
大正9年に沢藤幸治氏は陣ヶ丘の景勝に注目し、一帯に桜を植えて展勝地公園と名付けました。陣ヶ丘は立花地区民の共有地でしたが黒沢尻町に寄附され、昭和29年の北上市制発足とともに市立公園となったわけです。今は公園として注目されていますが、史跡としたの価値は忘れ去られ、使節によって破壊された部分も少なくありません。また陣ヶ丘は江戸時代までは陣ヶ森と呼ばれていました。
昭和56年 北上市立博物館

 

木々の向こうに北上平野がよく展望できる。北西方向。

 

南西方向。右上からの和賀川と、右下からの北上川が合流する地点だった。

 

振り返っての東方向。

 「きたかみ魅力辞典」のサイトには、ここに陣を取ったと伝わる武将として、ヤマトタケル、安倍比羅夫、坂上田村麻呂、源頼義・義家、源頼朝、蒲生氏郷などが紹介されている。

http://www.kitakami-kanko.jp/kanko.php?itemid=83&catid=71

 

駐車場の前には「みちのく民俗村」の受付でもある「旧今野家」の建物があった。

江戸時代末、奥州市江刺区梁川舘(旧伊達領)に建てられた間口から奥に長い商家で、明治・大正にかけて日用品の販売や、行商人向けの宿を営んでいたそう。

 

暖簾を入った先の奥の部屋も見せていただいた。店舗の裏の板の間。

 

箪笥は移動できるよう車輪がついている。

 

一番奥の座敷。 

 

鴨居の上がとても高かった。

 

「みちのく民俗村」は、北上川流域の南部曲り家等の茅葺民家10棟、大正期の旧黒沢尻高等女学校の校舎等18棟を、7haの敷地に移築復元した大規模な野外博物館であることを現地で知った。入館は無料。 

 

他の建物も見て回ったが、まず初めに、民俗村に隣接する北上市立博物館を訪ねた。

こちらは一般500円。

 

最初に目を惹いた周辺マップ。江釣子古墳群も含まれている。

 

なんと、2018年の4月からの月ごとのクマ出没地点だった。

 

博物館はリニューアルされたばかり(2016年)で、美術館のような雰囲気。

大きな展示室の中央では、市内の万蔵寺に伝わった十一面観音や鉈彫り男神像、白山神社の女神像(いずれも平安時代)などの素晴らしい仏像・神像に対面することができた。

 

周囲の壁面では縄文時代、古墳時代、戦国時代を主とした展示。最もインパクトがあったのは樺山遺跡・八天遺跡から出土した縄文土器。 

 

遺跡はどちらも国指定史跡で、樺山遺跡はここから南に3.3km、樺山遺跡は北北東に6.8kmにある。

 

北上市内は北上川東岸に縄文遺跡が連なる。西側の平野部にも多く見られるが、高速道などの開発に伴って発見されているようだった。

 

縄文早期・前期の土器。

 

縄文中期。

 

縄文後期・晩期、弥生期はじめの土器も。

 

樺山遺跡の解説コーナー。 ストーンサークル(配石)は縄文人の墓だった。

縄文時代の集落と墓
国指定史跡 樺山遺跡
北上川東岸の高台に位置します。斜面の上下に広がっており、上段では約5500年前の集落が営まれ、竪穴住居跡が多数見つかっています。下段では約4500年前の集落と、石をならべたモニュメント(配石)がみつかっています。配石は、細長い川原石を立てて、その周囲に山石をならべたものが一般的です。これまでに35基以上が確認されており、縄文人の墓と考えられています。現地は「樺山歴史の広場」として整備されています。

 

つながる鎖を浮き出しているような樺山遺跡の縄文土器。

 

見たかったのは、江釣子古墳群のコーナー。

古墳群東側上空からの航空写真。

国指定史跡 江釣子古墳群
江釣子古墳群は、奥羽山脈から北上川に注ぐ和賀川北側の低い段丘上にあります。東から八幡、猫谷地、五条丸、長沼の4つの支群からなり、江戸時代から蝦夷塚として知られていました。蝦夷の古墳群としては最大の規模を誇ります。

 

数々の出土品の現物も。

メノウの勾玉、ガラス玉は、内側が五条丸支群、外側が猫谷地支群の出土品。

 

左上が長沼支群からの錫釧(すずくしろ)、左下も長沼支群の金層ガラス玉(ゴールドサンドイッチグラス)、右上が五条丸支群の碧玉丁字頭勾玉、右下が猫谷地支群の琥珀勾玉。

 

蕨手刀(わらびてとう)は上が五条丸支群、下が猫谷地支群出土のもの。

 

この副葬品の武器類についての解説は興味深かった。

騎馬の戦い方を示す蝦夷の武器類
武器類には刀や鏃(やじり)があります。刀には、柄頭が蕨状をしている蕨手刀(わらびてとう)とよばれるものがあります。この地域の蕨手刀は、柄(握り部分)と刀身(切る部分)が緩やかな「く」の字状を呈しているのが特色です。これは、馬上から切りつけるのに有効であったと考えられます。鏃も武器として威力のあるもので、騎射に用いた可能性があります。日常生活や狩猟等で騎馬に慣れた蝦夷の戦い方は、北アジアの遊牧民族と同じような騎馬戦闘であったのかもしれません。この戦い方が、後の武士の始まりに大きく影響を与え、湾刀である日本刀の発生に結びついたという考え方もあります。 

 

こちらは馬具の副葬品。どちらも五条丸支群の出土品で、左は鉄製絞具、右は鉄製轡。

解説によれば、江釣子古墳群では古墳の脇に馬を葬ったと考えられる穴も見つかっていたことから、被葬者である蝦夷たちは馬を身近に置いて、その扱いにかなり長けていたようだとあった。

 

東北北部と北海道の主要古墳を示すパネルも。

江釣子古墳群からみえる蝦夷像
宮城県の多賀城跡にある多賀城碑には蝦夷国という記載がみられます。蝦夷国とは当時北上盆地以北の蝦夷と呼ばれた人々がいた地域をさしています。蝦夷は北辺の民の蔑称とも考えられています。しかし、江釣子古墳群の遺物をみると、南の人々の生活とあまり変わらないことがわかります。ただ、中央で古墳が造られなくなった奈良時代でも古墳を造り続けます。

 

奈良時代末期から平安初期にかけての遺跡からは赤彩球胴甕が出土する。北上盆地ではそれが石室を造る古墳群と一致するそうだ。

 

ヤマト王権が蝦夷との戦いに勝ってからは姿を消していった、”蝦夷の赤い甕”。

 

赤彩球胴甕が語る蝦夷のその後。

中央政府と北上盆地の蝦夷との戦いは、征夷大将軍の坂上田村麻呂により胆沢城(奥州市)、志和城(盛岡市)が造られ、終わりました。中央政府側となった蝦夷は俘囚(ふしゅう)と呼ばれ、その戦闘力、牧畜の専門技術などを利用するため日本各地に送られたようです。関東地方や中部地方で出土する赤彩球胴甕はこのことを物語っています。ただ、地元に残った俘囚も多くいました。志和城内の竪穴式住居からも赤彩球胴甕が出土していることなどから、中央政府の現地役人となっていった者もいたのでしょう。胆沢城出土の木札には、「和我連(わがのむらじ)」という蝦夷出身と考えられる人が、白米を胆沢城に送っていた記載が見られます。

 

展示はさらに戦国時代以降へ続くが、その中では「境塚」が興味深かった。

南部領伊達領境塚
寛永18年(1641)南部と伊達の藩境が確定すると、起点となる奥羽山脈の駒ケ岳山頂(1129.8m)から太平洋の唐丹湾(たんにわん:釜石市)までの境界線上(約155km)に大小の塚が築かれました。このような境塚が良好な状態で残っているのは、全国的にもたいへん珍しく、江戸時代における東北地方の政治的緊張状況を示す貴重な遺跡です。北上市と金ヶ崎町の約11kmに及ぶ地域が、国の史跡に指定されています。史跡範囲内には2基の挟塚と15基の大塚が現存しています。

つづく。