墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

奥州市埋蔵文化財調査センター 胆沢城跡 岩手県奥州市水沢佐倉河九蔵田

前回の角塚古墳見学後は、車で12,3分の奥州市埋蔵文化財センターへ向かった。 

 

大きな建物で正面玄関の柱や軒が寺社のような造りになっている。この施設は胆沢城跡に隣接していた。

 

1階では蝦夷の雄、アテルイ阿弖流為)がお出迎え。

延暦8年(789)の巣伏村での戦いで朝廷軍に大勝したがその後に坂上田村麻呂に降伏したアテルイの根拠地は、ここ水沢近辺だった。

降伏した延暦21年(802)に田村麻呂によって胆沢(いさわ)城が築かれ、大同3年(808)には多賀城から鎮守府も移転し、その後150年間ほど機能していたと考えられてるそうだ。

http://www.oshu-bunka.or.jp/maibun/publics/index/26/

 

入館料200円を納めて2階の展示室へ。こちらは多賀城を守るヤマト王権側の兵士(ときどき目が光る)

 

はいってすぐは蝦夷を紹介するコーナー。弥生時代古墳時代の出土品が展示される。

 

「古代東北と蝦夷」のパネル。

ここ東北地方北半地域においても弥生時代前期には米作りが始まって弥生文化が広まったが、仙台平野のように古墳時代前半に大型古墳が作られることはなく、強力な政治的支配者を生み出す社会には至らなかったとみられている。
この地域に「ナイ」や「ペッ」のアイヌ語地名があったり、遺跡から北海道系の土器が出ることから、蝦夷を北海道系住民としたり蝦夷は北海道系住民を含むとする説があるそうだが、これまで発掘された遺跡からは南下した北海道系住民のムラは無く、「いまだ解決されない大きな問題」と説明されていた。

 

古墳時代の遺跡」のパネル。

 

角塚古墳は5世紀末から6世紀初頭の築造。
弥生時代から引き継がれた胆沢地方の農耕社会がヤマト王権と結びつく政治的支配者を生み出したことを示すが、その後に続く大型古墳やムラの跡はなく、7世紀に終末期古墳が現れるまでは「空白の時代」となっている。

 

ケースの右には角塚古墳出土の円筒埴輪(レプリカ)が展示されていた。

 

7世紀以降の古墳からの出土物が「蝦夷」のものとして紹介されていた。

矢巾町の上蝦夷森古墳出土の首飾り(レプリカ)

この墓に埋葬された蝦夷翡翠・碧玉・めのう勾玉、碧玉の管玉、水晶の切子玉、色ガラスのとんぼ玉など、高価な宝石を身に着けていた。色をうめ込む「とんぼ玉」は日本では作ることができなかったもので、古代オリエントにみられる技術だそう。

 

北上市江釣子古墳(7世紀)出土の蕨手刀(レプリカ)



盛岡市の上田蝦夷森古墳(7世紀中頃)出土の「蝦夷の冑」

U字型にまげた鉄板の両端を前であわせ、桃実形に作った衝角付冑。
冑下端に一列の小さな穴があり、”シコロ”が鉄板で復元されているが革製の可能性もあるそう。

 

1階にあった「蝦夷の武器武具」の説明パネル。 

東北北部での鉄生産は三陸地方で8世紀頃に始まっている。

 

胆沢城のコーナーはさらに充実。城壁を版築で造っている様子も。

 

城跡から出土した人面墨書土器

 

センター北側にある胆沢城跡は国指定史跡。

 

詳細な説明板があった。

国指定史跡 胆沢城(いさわじょう)跡
■胆沢城とは
延暦21年(802)、坂上田村麻呂が、当てる井の本拠地「胆沢」に造営した古代の城柵です。大同8年(808)まで陸奥国多賀城から軍政を司る「鎮守府」が遷され、10世紀中頃まで、鎮守府胆沢城として機能しました(後略)
■胆沢城の規模・構造
・外周は櫓がつく外郭築地と内外の溝で方形に区画されています。外郭築地の長さは一辺役70m、総延長は2.7kmです。外郭築地では、南門と北門が見つかっています。
・外周の南北門を結ぶ線上に、周囲を一辺約90mの塀で囲まれた政庁があります。政庁内は、正殿と東西の脇殿で構成され、北西隅に内神を祀っています。
・政庁南門の前に政庁前門があります。城内には厨をはじめ多くの施設があります。
■胆沢城の特徴
東北古代城柵の特徴である外郭施設のうち、外郭南門は国府多賀城よりも大規模な門で、特殊な構造をしています。政庁前門は胆沢城特有の門です。
蝦夷をもてなす年中行事の「俘饗(ふきょう)」が正月と5月に行われていました。
■外郭南門地区の概要
外郭南門地区は、胆沢城に入る南中央に開く正門のある場所です。南大路を進むと、外郭南門の東西には外郭築地と櫓が位置し、見るものを圧倒する当時の景観を想像することができます。整備では、9世紀末から10世紀前半の主要な施設を原位置に表示しています(後略)

 

復元された南大路は幅11m。

 

大型の築土塀(向かって左側)

説明板が見えたが整備工事中で近寄れなかった。

 

向かって右側の築土塀。この距離でも十分迫力があった。

 

そこから振り返った南方向。左の大型建物が奥州市埋蔵文化財調査センター。

 

センター内にあった復元ジオラマ

南大路は手前側。非常に大規模な施設であったことがわかった。