墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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碧海山古墳・堀内古墳・百塚古墳 愛知県安城市桜井町干地・堀内町屋敷・桜井町下谷

前回のつづき。

桜井神社の薬師様を拝観した後、西側の住宅街に残る古墳を訪ね歩いた。 

 

民家の庭先に巨大な円筒形になったサザンカが。

 

その先、十字路の角に墳丘があった。

 

道路を渡って写した墳丘。右奥にサザンカの塔も見える。

 

説明板がある。

市指定史跡 碧海山古墳
昭和40年11月3日指定
この古墳は円墳で一部破損されていますが、平面の直径約25m、高さ約4m(復元推定)で、頂上が平坦で広いことがこの円墳の特徴です。大きさ、形からみて古墳時代の前半期のものと思われます。桜井地区には前半期の古墳が比較的多くみられ、古代の西三河地方に於いてこの地域が特殊な立場にあったことを暗示しています。また、この地は碧海郡の郷名の発祥の地と伝えられ、倭姫命の神霊を祈りて社を建て、碧海大明神と称し、里人の崇敬を受けていました。舟繋の椎の大木、一葉松の名木もこの地にありましたが、今は朽ちて里人の俚伝となっています。
昭和56年3月1日 安城市教育委員会

 

墳丘を北側から。左の道は個人宅へのアプローチ。

 

南側に戻って、解説板と「碧海山古墳」と刻まれた石柱との間から、墳丘に登らせていただいた。

 

墳頂に上がって振り返って。

 

墳頂は平坦で、藪ではなかった。

 

墳頂から東側。左奥の木立が桜井神社(比蘇山古墳)か。

安城市教育委員会の「桜井古墳群保存管理計画書」により、読み方が「へっかいざん」古墳と知った。こちらの解説では現状規模は直径24m、高さ約4.5m円墳と想定され、墳頂部が6×10mほどの平坦面になっているのは、かつて碧海明神の社殿が存在した痕跡と想定されるとあった。築造時期、埋葬施設、出土遺物はいずれも不明とのこと。

 https://www.city.anjo.aichi.jp/shisei/shisetsu/kyoikushisetsu/documents/siryouhen.pdf

 

 次に北阿原下の交差点を渡って道路を西に進むと、北側に堀内公園(堀内貝塚)があり、南側の民家の後ろに墳丘が現れた。

 

枝道に入って南側に回りこむと、墳頂の神社への石段や解説板があった。

 

堀内古墳は直径23mの円墳。さきほどの碧海山古墳と同じような規模。

市指定史跡 堀内古墳
昭和40年11月3日指定
桜井古墳群を構成する古墳の一つです。桜井古墳群の多くの古墳は、鹿乗川を望む碧海台地端部に築かれていますが、この古墳は碧海山古墳と同様、碧海台地端部でも内側の堀内川によって開かれた谷の内側に入り込んだ地点に立地しています。
かつては、地籍図などの検討により前方後円墳の可能性が指摘されていましたが、発掘調査によって直径23m、高さ3.5mの円墳に復元されています。しかしながら、古墳の周溝や関連する遺物は確認されておらず、築造時期を特定できていません。
なお現在、墳頂には天王社が造立されていますが、宝暦7年(1757)作成の「堀内村絵図」では「天神」と記され、大正3年(1914)までは天神社が存在したことがわかっています。
本墳は、天満山古墳とも呼ばれています。それは、菅原道真を祭神とする天満宮が、天神を祀ることとのつながりによるものとみられます。
安城市教育委員会。

 

実測図の拡大。

 

まずは墳頂の神社に参拝。

 

社殿の西側。左下が初めに墳丘を見上げた通り側。

 

社殿の東側には稲荷社もあった。

 

拝殿前から南側。

 

下へ降りて再び見上げて。

この古墳も前出の安城市教育委員会「桜井古墳群保存管理計画書」によると、築造時期や埋葬施設、出土遺物等は不明。神社造営のため大幅な改変を受けたようだが墳丘周囲には周溝の可能性がある溝があるとのこと。
堀内貝塚の立地する台地と本来は連続していて、西170 mにある碧海山古墳との間に小さな開析谷が入っていたらしい。

 

次の古墳を目指して細道へ。

 

旧道の風情がある道を南へ行くと、小高くなった十字路角に百塚(ももづか)古墳があった。 

 

墳頂には下谷八幡神社に参拝。

 

拝殿から振り返った南側。現地解説板は無し。

 

拝殿脇に古墳の名残りのような小突起があった。

 

南側の広場の端から振り返った墳丘。

 今回も前出の安城市教育委員会「桜井古墳群保存管理計画書」によると、百塚(ももづか)古墳は円墳とみられるが現状は約20m四方の石垣に囲まれ、規模や墳形・築造時期・埋葬施設・出土遺物のいずれも不明とのことだった。

碧海台地の東縁から450mほど奥まった位置になるが、古墳の南側に西町支川の作る開析谷が細長く入り込んでおり、中狭間遺跡と亀塚遺跡との間で沖積低地に開いているそうだ。

つづく。