墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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平沢官衙遺跡 茨城県つくば市平沢

前回のつづきの筑波山南麓。

 

史跡・平沢官衙遺跡は、古代(奈良・平安期)の郡の正倉と推定される遺跡群で、3つの建物が復元されている。

 

詳細な説明板があった。

国指定史跡 平沢官衙(ひらさわかんが)遺跡

平沢官衙遺跡は、いまから千年以上前の奈良・平安時代の常陸国筑波郡の役所跡です。昭和50年(1975)の調査で、重要な遺跡であることが判明し、昭和55年(1980)に国の史跡に指定されました。平成5・6年度(1993・4)には復元整備事業を計画し、本格的な発掘調査を行いました。
調査では、一般の遺跡ではみられない大型の高床式倉庫と考えられる建物が数多く並び、それらを大きな溝が囲むという遺跡の全容が確認されました。これらの倉庫跡は、そのころの税である稲や麻布などを納めた、郡役所の正倉跡と考えられます。出土物はわずかで、土器類・瓦・硯の破片・焼米などがあります。
つくば市では、この貴重な文化財を後世に伝え、活用するため、平成9年度(1997)から6年間をかけて往時の姿を復元しました。

地方のしくみ
基本的には国ー郡ー里(郷)に分けられ、郡の役人である郡司には、在地の有力者が選ばれました。郡の役所は郡衙・郡家といい、政庁(役人が事務を行う場)、正倉(租などを保管する場所)、館(国司・郡司などの宿泊所)・厨家(炊事場)ほかに分かれていました。なお、官衙とは、古代の国や郡の役所のことです。
平沢官衙遺跡では、これらのうち正倉域(院)の大部分を確認しました。

古代常陸国の郡と筑波郡の郷(10世紀前半)
・郡:新治、真壁、筑波、河内、信太、茨城、行方、鹿島、那珂、久慈、多珂
・郷:大貫、筑波、水守、三村、栗原、諸蒲、清水、佐野、方穂
現在のつくば市域は、北部が筑波郡、南部が河内郡に属します。

当時のおもな税
物納と労働に分かれ、調・庸・雑徭が中心。性別、年齢、居住地などにより、負担に差がありました。
・租:農地(口分田)にかかる税。稲の収穫の約3%
・調:各国の特産品。絹・布などや鉱産物・海産物など。
・庸:歳役(都での労働)の代わりに納める布
・雑徭:国内での労働など。最大、年間60日。
・兵役:各国の軍団や都に配属。防人は東国から派遣。

 

発掘調査のようす。

遺構の変遷
本遺跡の遺構の配置は一見不規則に見えますが、建物の方位をみるとL字形やコの字形のような平面配置で、数棟単位で群を形成することがわかります。ここでは、群内の建物は同時期に建てられたと位置づけ、出土物の年代観を組み合わせて、5期に区分しました。
なお、郡衙正倉院としての最盛期はⅡ、Ⅲ期と考えられます。
Ⅰ期:8世紀初頭以前 遺跡東南部に柵列
Ⅱ期:8世紀前半中心 遺跡東南部と西部に中規模総柱建物
Ⅲ期:8世紀後半中心 遺跡中央部に大規模総柱建物 大溝掘られる
Ⅳ期:9,10世紀 空閑地に小・中規模総柱建物(時期不明も含む)
Ⅴ期:11世紀以降 遺跡中心部に大規模側柱建物

 

復元にあたって。

遺構の復元にあたっては、遺跡の主要な時期であるⅡ期とⅢ期の、建物の全容がほぼ明らかな23棟と大溝で行いました。礎石建物はⅢ期のみ復元し、すべての礎石が元の建物から動かされていたことから、各建物の柱位置を推定して史跡内に残っていた礎石を再配置しました。また、大溝がⅢ期と考えられるため、同時期の建物規模が明瞭な中央の一群3棟を立体的に復元しました。

史跡概要
指定年月日:昭和55年12月4日
所在地・面積:つくば市平沢353番地他 32,445㎡
指定理由:奈良・平安時代の郡の正倉と推定される、地方官衙の代表的遺跡

 

広い斜面でゴロゴロ楽しむ子供たち。

 

斜面を上がっていくと礎石群も現れた。

 

ロープで区画された箇所もある。

 

各建物についての解説。

 

一番東側に「1号建物」 校倉造りには柱がないことを改めて認識した。

1号建物(第19号建物跡)
寄棟・目板打ち厚板流れ葺
遺跡中央部のⅢ期建物の中でもっとも面積が狭い。
古代の文献により、校木を井桁状に組み上げる校倉は、郡衙正倉では中規模以下の倉におおいことが判明している。また、校倉は柱がないため軒先が下がりやすい。ここでは、外周柱穴列を屋根支柱と推定して、校倉で復元した。屋根は校倉建物に多い寄棟としてある。復元に際しては、奈良県の東大寺や唐招提寺に現存する奈良時代の校倉を参考にした。

 

建物の間から北側。山際に筑波の双耳峰がちょこんと。

 

2号建物は間口が六間ある大型茅葺の土倉。

2号建物(第18号建物跡)
寄棟・茅葺
本遺跡で最大級のⅢ期の建物。古代の文献により、郡衙において中心的で巨大な正倉は法倉と呼ばれ、土壁構造が多かったと推定されることから、土倉で復元した。現存する古代の土壁の倉として奈良県の法隆寺綱封蔵を参考にしたが、遺跡東南隅のⅡ期52・53号は双倉となる可能性があるため、同蔵と同じ双倉構造とした。屋根は本遺跡の瓦出土量が少なく、瓦葺建物は考えにくいので、茅葺にした。

 

中央二間が南北吹き抜けで、左右が倉となる双倉構造。

 

高床は背丈以上になるが、床上も高さがある。

 

奥は1号建物。

 

西側から見た2号建物。

 

白い漆喰壁と校倉壁との対比。

 

振り返った斜面の下に、きれいなトイレのあるガイダンス棟と駐車場がある。

 

3号建物は、柱があってその間に板壁を落とし込む校倉構造。

3号建物(第33号建物跡)
切妻・榑板葺
2号建物とともに本遺跡で最大級のⅢ期の建物。発掘調査で発見される掘立柱建物は、1柱穴1柱がふつうだが、本遺跡では側柱穴に2本の柱痕跡が見つかった。これは、1本は床上まで伸びて桁・梁を支える通し柱、もう1本は床を支える添束(柱)と考えられるため、柱の間に板壁を落とし込む校倉で復元した。屋根は軒の出が短い切妻とした。古代の文献では、郡衙正倉はこの板倉がもっとも多い。

 

この建物も大きくて迫力があった。

 

筑波山を背景とした広い草地に、現存古代建築や文献に基づいた建物がしっかり復元されているので、1300年前の光景がリアルに感じられた。

 

ガイダンス施設には、出土物もいくつか展示されていた。

 

その解説。

出土遺物の概要
遺物(土器、瓦、柱材といった道具その他の総称)の出土量は約2万㎡という発掘調査面積の割に多くはなく、少量の(素焼きの)土師器、(窯焼きの)須恵器、瓦、硯、陶磁器、炭化米、柱材でした。このことは、遺構(建物跡、溝跡といった構築物の総称)の中の土(覆土、埋土)をあまり掘り下げなかったこと、この遺跡の性格が官衙(役所)でも土器を使わずに米等を保管した倉庫だったこと等によると考えられます。
遺構別では、大溝跡より建物跡からの出土量が少なく、どちらも8世紀から9世紀前半にかけてのものが多い中、11世紀頃の土師器も出土しました。竪穴式住居跡では、若干の縄文土器を除いて、7世紀以前の古墳時代の土師器や須恵器が主体となっています。建物跡が住居跡を壊しており、遺構・遺物両面から竪穴住居の方が古いことがわかります。また、遺構としては不明瞭ですが、中世以降の陶磁器も比較的多く出土しています。

 

縄文土器も出土していた。

数千年前から人の営みがあった場所だった。