墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

佐都ヶ岩屋古墳(平沢1号墳) 茨城県つくば市平沢

前回のつづき。

実際の訪ねた順番と前後するが、筑波山南麓の平沢古墳群を。

その1号墳(佐都ヶ岩屋古墳)は筑波国際カントリークラブのクラブハウスへ向かう道沿いの斜面にあった。

 

ヘアピンカーブの縁に説明板があり、駐車ができるほとのスペースもあった。

 

その解説を。

つくば市指定史跡 佐都ヶ岩屋古墳
昭和48年12月12日指定
ここ平沢には「三十六岩屋」という伝承がある。地元では開口した横穴式石室を岩屋と呼び慣わしてきており、かつてはたくさんの古墳があったと推定される。現存するのは4基のみであるが、その中の1基、この佐都ヶ岩屋古墳(さどがいわやこふん:平沢1号墳)は、筑波山南麓の7世紀の古墳としては最大級の墳丘や横穴式石室を有しており、この地域を支配した首長の墓をいえる。
本古墳は、おおよそ南北25m、東西35m、高さ7mの方墳で、南側に巨大な板石を組み合わせた横穴式石室が開口している。石室は、石室内部が前室と後室に分かれる複室構造で、さらに全国でもめずらしい平面T字形である。築造された時期は、羨道と前室を分ける前門が整ったL字形に加工されている特徴から、7世紀半ばから後半頃と考えられる。
6世紀以前、首長の墓は前方後円墳と基本としていたが、6世紀末頃からは大型の円墳や方墳へと変わり、8世紀までには古墳そのものの築造が終わりを迎える。この古墳終末までの時期を古墳時代終末期という。そして、このような全国的な古墳築造の変遷は、中央集権的な国家制度の整備や仏教の普及に連動するものと考えられている。古墳時代終末期に築造され、時代的特徴と規模を備えた本古墳の存在は、中央において着々と進む国家体制づくりを受け入れ、その変化に対応していった、この地域の人々の動向を伝えるものである。
かつてこの地一帯は、筑波国造が治めていたと考えられる。そして、国・郡(評)・里という地方制度が成立した際、各地の国造が郡司(評督)となったといわれる。古代筑波郡役所跡である平沢官衙遺跡を見下ろす位置に築造された本古墳の被葬者と、筑波国造・筑波郡司との関係も注目される。
など、平将門の娘、瀧夜叉姫が、ここに隠れ住んだとの伝説もある。
平成18年7月25日 つくば市教育委員会

 

説明板の後ろの斜面を迷いながら登る。振り返ってのカーブ。

 

その先に開口部があった。

 

奥が明るくなっている。

 

きれいに加工されたL字型石材を組み合わせた前門。

 

まず、四つんばいになって前室へ。

 

そこをくぐって羨道に。ゴルフボールが落ちていた。

その先のT字型の玄室は、右半分の天井が開いていた。

 

ボールを跨いで玄室側へ。屍床の仕切りの石が残っている。

 

天井の残る左側から。

 

下部の仕切り石。

 

広くて平らな側壁石。

 

そこから見上げた空。OBボールが飛んでくる可能性あり?

 

玄室の天井が残っている側の隅。

 

大きな天井石。壁も天井の一枚岩で、ツーバイフォーのような造り。

 

その玄室と羨道とを一部区切る柱。セメントで補強されている。

 

そこから見た羨道。

 

羨道の天井と前門の上部。

 

 

フラッシュを焚かないと写らない。

 

羨道の側壁。

 

上記の反対側。

 

前門から見た入口。

 

外へ出て墳丘上から「穴」を。草が茂ると落とし穴になるので見学の際はご注意を。 

 

墳丘から眺め。木々が無ければ平沢官衙が見えるはず。

 

帰路、一段下がったカーブからの眺め。左の樹木の隣に平沢官衙の復元建物が写っていた。