墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

画像が出ない場合はPCで、クロームOSでお試しください。

松陰神社 東京都世田谷区若林

今回からも東京文化財ウィークの公開物件巡りを。最初の目的地は国士舘大学の大講堂だったが、途中に気になる神社があったので参拝した。

 

吉田松陰を祭神とする松陰神社。

松陰神社 
ご祭神 吉田寅次郎藤原矩方命(吉田松陰先生)
松陰先生は、幕末の思想家、教育者で私塾松下村塾を主宰し、明治維新を成し遂げた多くの若者を教育しました。しかし、安政の大獄に連座し江戸の伝馬町の獄中にて三十歳の若さで刑死されました。その4年後の文久三年(1863)に、松陰先生の門下生であった高杉晋作、伊藤博文等によって、当時長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の所領で大夫山(だいぶやま)と呼ばれていたこの地に改葬されました。
明治15年(1882)11月松陰先生門下の人々が相談し、墓畔に社を築いて先生の御霊を祀り神社が創建されました。

 

公式サイトには非常に詳しいご由緒がある。 

https://www.shoinjinja.org/history/

 

参道には松陰先生の座像がある。平成25年に鋳造されたブロンズ製だが、もとの石膏像は靖国神社の大村益次郎像も作った大熊氏廣(1856~1934)の手になる。

 

大きな拝殿に参拝。

 

拝殿の右手に門と住宅があった。

 

山口県の萩市にある松下村塾の原寸復元建物だった。隣地の国士舘校内に昭和13年に建てられ、3年後に当神社に寄贈されている。

松下村塾(模造)
松陰先生の叔父である長州藩士の玉木文之進が、天保13年(1842)萩に寺子屋を開き、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こりです。玉木氏が公務多忙の為、塾は自然消滅しましたが、その後、久保五郎左衛門(松陰の外叔父)が塾主となり復活し、安政4年(1857)まで引き継ぎました。更に、松陰先生が再投獄されるまで引継ぎ、さらに玉木氏や兄の杉梅太郎らによって断続的ながら明治25年(1892)頃まで続きました。
松陰先生は、安政2年(1855)26歳の冬に出獄(米艦に乗船を企て投獄されていた)してから、実家である杉家で親戚の子弟等に教育をはじめ、翌年の夏頃には親戚以外の者も通ってくるようになりました。
しだいに塾生が増えたため、安政4年(1857)11月5日には杉家内の小屋を補修した八畳一間の塾舎が完成。松陰先生は塾に起居し、塾生に対し師弟同行の実践的教育を行いました。さらに塾生が増加して手狭になったので、安政5年(1858)3月、十畳半の増築がおこなわれました。松陰先生が塾生に教育を施したのは僅か2年半程でありましたが、薫陶を受けた総勢90名程の塾生からや、久坂玄瑞、高杉晋作、山縣有朋、品川弥二郎、伊藤博文、野村靖など、明治維新を通し近代日本の原動力となった多くの逸材が育っていきました。当神社にある模造松下村塾は、昭和13年12月に隣接する国士舘校内に松陰先生顕彰のため建築されたものです。当時、すべての建築材料を萩で集め、東京へ移送して建築され、木材、瓦などは幕末期の毛利藩代官屋敷の古材が使用されました。(現材でも建材の多くは当時のものが残っています)
その後、昭和16年に国士舘から当神社に寄贈され、境内の鳥居脇へ移築。平成8年に境内整備のため、現在の場所に移築。平成28年には維新150年記念事業の一環として約8ヶ月をかけ保存修繕工事を行いました。

 

土日祝の9時-16時で雨戸が開けられるそう。

 

2棟の平屋が雁行してつながる。

 

こちらは拝殿前の石灯籠。

 

明治41年(1908)に奉献された32基で、ここにも教科書で見る名前が沢山ある。

 

石灯籠の前を拝殿に向かって左に回りこんでいくと墓所が。

 

吉田松陰先生他烈士墓所。

 

神社の墓地。