前回のつづき。
上福岡民俗歴史資料館から長宮氷川神社を経て、台地の縁に来たところ。
奥が古墳のある森で、手前の農家には立派な長屋門があった。
長屋門の東側に丘の上へ向かう道。
上っていくと左手に「県指定 権現山古墳群史跡の森」が。
ここから北に続く「歴史と緑の散策路」のマップも。この地図にて、権現山北古墳群(消滅)の位置もわかった。
上ってきた道を振り返って。
道路は墳丘の一部を削っている。こちらは1号墳(方墳)の断面か。
こちらも柵に沿って、2号墳(前方後方墳)の断面。
道の反対側は崖で、木々の向こうに低地が見えていた。
角を曲ると説明板があった。左が上ってきた道。
「権現山」についての説明板。
権現山
眼下に新河岸川を見下ろし、対岸には蓮光寺や田園を望む高台一帯は、武蔵野の面影を残す静寂な一角となっている。
古来、この地は権現山(将軍塚)と呼ばれ、徳川家康一行が鷹狩りに来た時に休息したと伝えられている塚である。また対岸には家康一行が立ち寄った蓮光寺もある。塚の上には「東照神祖命」と刻まれた小さな石碑が建てられているが、これには天保十一年(1840)とあり、後に造立されたものである。権現山は家康を「東照大権現」と呼ぶところからきており、現在、この塚はふじみの市指定文化財の史跡になっている。
また、権現山の周辺には「権現山墳墓群」といわれる方形周溝墓や古墳などが発見された古墳時代の遺跡があり、この権現山も「前方後方形」をした初期古墳の一つである。ここから出土した三孔時や5世紀頃の「はそう」形須恵器、市指定有形文化財として市立上福岡歴史民俗資料館で展示公開されている。
平成5年3月 埼玉県 ふじみ野市
権現山古墳の解説板(その1)
埼玉県指定史跡 権現山古墳群
古墳時代の初め頃(3世紀後半)、眼下に関東平野を見渡せる眺望の優れたこの地に、前方後方墳1基と方墳11基が造られました。前方後方墳(2号墳)は、墳頂32m、後方部20m四方で、古墳群の中でもひときわ大きく、盟主墳であると考えられます。さらに、古墳の周りをめぐる溝の中からは葬送儀礼に使用された高坏や底部に穴をあけた壺などが出土し、古墳時代の幕開けを知る重要な資料として確認されました。
近畿地方では大和政権が成立した頃、荒川下流域に造られた初期の希少な古墳群として往時の様子を今日に伝えていることから、6基の古墳と出土土器7点が平成14年3月22日に埼玉県の指定史跡になりました。
平成16年1月 ふじみ野市教育委員会
実測図の部分のアップ。2号墳の上の3分の1と、1号墳の半分以上が削られた。
2号墳を側面から。
上福岡歴史民俗資料館にあったジオラマを先に見ていたのでわかりやすかった。
散策路と2号墳の間は二重の柵。
権現山古墳群の解説(その2)
盟主の墓 2号墳
権現山古墳群2号墳は、およそ1700年前の古墳時代初期に造られた前方後方墳です。前方後方墳とは、上から見ると二つの四角形を組み合わせた形をした古墳で、古墳時代と通じて九州から東北地方中部地域まで造られました。
この2号墳は他の古墳よりひときわ大きく、全長32m、後方部は一辺20m四方、前方部は12mに及びます。現在のふじみ野市一帯をまとめた盟主の墓と考えられています。遺体を埋葬した後方部は高さ約2mの盛り土が施されていますが、前方部にはほとんどされていません。周囲には溝がめぐらされ、くびれ部は溝幅5m80cm、深さ1m。前方部は溝幅1m、深さ40cmです。
古墳の上には、葬送儀礼のために食べ物などを持った高坏や壺などの土器が供えられました。発掘調査により周囲の溝からは墳丘から転がり落ちた状態の土器4点が発見されており、そのうちの高さ33.5cmの土師器の壺は、わざと底を打ち欠いて器としての機能を失わせています。これは儀礼専用に使用されたもので、後の埴輪へと変容していったと考えられます。
「権現山」の名前は、徳川家康が鷹狩のときにここで休憩したという伝承から家康の別称「東照大権現」より江戸時代から呼ばれてきました。現在は塚の上には江戸時代後期に建てられた「東照神祖命」の石の祠がまつられています。
ふじみ野市教育委員会
低地を見渡す眺めが描かれた絵。後方部が低地側に向いている。
絵を見ていて、手賀沼を望む、我孫子の前原古墳(方墳)が思い起こされた。
前方部側から見た2号墳。
森の中側から見た2号墳の方向。
その近くにあった権現山古墳の解説板(その3)
古代へのいざない 埼玉県指定史跡 権現山古墳群
紀元後3世紀後半にあたる弥生時代の終わりから古墳時代の初め頃、新しい居住場所を求める人々が集団でここ権現山の地にやってきました。当時の人々は一辺5~6mの竪穴式の家を造り、数軒がまとまって生活していました。
この辺り一帯を支配する首長が亡くなると、人々は墳丘の大きさが32mの前方後方形のお墓(2号墳)を造りました。お墓の形に沿って周りに溝を掘り、高さ2~3mの盛り土をしたところに遺体を埋葬しました。その後も有力者が亡くなるたびに次々と首長のまわりに方形のお墓(7号墳ほか)を造り、壺や食べ物を盛る高坏をお墓の上に飾り葬送儀礼を行って死者を弔いました。
見晴らしの良い高台のひりに築かれたたくさんのお墓は、すぐ下の集落(滝地区)から仰ぎ見る位置にあって、亡き首長たちの偉容をあらわし、当時の人々にとって大きな心の拠り所だったことでしょう。
この時期の古墳は、埼玉県内で現存している例が少なく、永く将来に残すべき貴重な文化財として保存していく必要があります。
ふじみ野市教育委員会
絵図の拡大。
そこから1号墳(と11号墳?)の方向を。
振り返っての7号墳には番号札があった。
ほぼ平な12号墳。
4号墳の札も見つけられた。
右奥が最初に見た公園入口。少し高くなった左側に、1号墳・2号墳・4号墳・7号墳・12号墳があった。道の右側に少し下がって3号墳を含む一群がある。
3号墳
墳丘がわかる3号墳。
3号墳の周溝?
中央が3号墳、その左に10号墳、左端が5号墳。すべて方墳。
一番奥の5号墳。
5号墳の札。
10号墳。
10号墳の札。
左5号墳、右10号墳。
6号墳・8号墳・9号墳・11号墳(の札)は見つけられなかった。