墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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上福岡歴史民俗資料館 埼玉県ふじみ野市長宮

10月の第二土曜は同僚のお墓参りに出かけたが、武蔵野線の武蔵浦和で埼京線に乗り換えるところをを北朝霞まで乗り越してしまった。墓参後に、ふじみ野市の古墳を訪ねようと思っていたので、先に古墳を回ることにした。

東武東上線の上福岡駅で降りて、まずは上福岡歴史民俗資料館へ向かった。

 

駅前の観光マップの看板。赤い点線の「新河岸川の眺めと舟運の歴史を訪ねるコース」約9kmには、歴史民俗資料館や権現山古墳群、福岡河岸記念館も含まれている。

 

バスルートが見当たらなかったので、20分歩いて到着。

 

入館無料。ガイドの方がいらして、マンツーマンで展示物の解説をしていただけた。

エントランスには整然と並ぶ建物のジオラマがある。ふじみ野市の上野台にはかつて広大な陸軍造兵廠川越製造所があった。それぞれの建物は土塁で囲まれている。

 

弾丸用の火薬が主だが、航空機用機関砲・機関銃の弾丸組み立て、銃弾・爆弾などの部品の製造・加工、風船爆弾の部品や陶製の地雷・手榴弾も手がけていたとのこと。

建物は空襲に遭わず戦後も残ったが、米軍には隣地にあった無線施設(現KDDI総合研究所)を無傷で接収する意図があったとかなかったとか。

 

いざ展示室へ。

 

最初に目にしたのはふじみ野市周辺の立体模型。現在地は赤い丸で、この地が武蔵野台地の北東縁にあたり、何本もの川が平行して北東へ流れていることがわかる。

 

その隣に、権現山古墳群2号墳の推定復元模型。

 

見事な前方後方墳。

 

現在は後方部の上方3分の1ほどが、道路でカットされているようだ。

 

ガラスケースには旧石器~縄文時代からの出土品の数々。

 

台地の縁は「古入間湾」に面していたので、近辺には貝塚が多かった。

 

よって見事な縄文土器も出土している。造兵廠建設にあたって上福岡貝塚が発見された。出土品の片口土器(縄文前期)は重文指定で東博の所蔵。

 

上福岡貝塚のM号住居跡の復元模型。台形の平面に6本の柱跡がある。

縄文住居にしてはモダン?

 

壁の絵はM号住居内部の想像図。

 

上に大きく開いた形の縄文土器。縄文時代前期の鷺森遺跡で出土した深鉢・諸磯式土器。

 

竹ベラで引っかいたような連続文が見事だった。

 

上から。穴に縄を通していた? 

 

川崎遺跡では古墳時代初めごろの竪穴住居跡が検出されている。

(前略)大きさは7.6m×7.3mで、やや隅の丸い方形をしており、内側に4本の柱がありました。住居の設備には中央に炉があり、隅には貯蔵用の穴が掘られていました。この時代のものとしては大型のものです。
このような特徴をふまえて、上屋の垂木を交差させて復元住居を考えてみました。
この住居跡は市指定文化財として保存してあります。

 

ふじみ野市周辺の古墳時代の遺跡。横穴墓が多く見られる。

 

権現山古墳についての説明もあった。

権現山古墳群をつくった人びと
3世紀後半の古墳時代の初め、新河岸川と荒川低地を望める見晴らしのよい場所に前方後方墳1基と方墳11基からなる権現山古墳群がつくられました。
権現山古墳群では、底に穴をあけた壺や溝の際に埋められた壺棺、高坏などが発見され、当時の儀式のようすがうかがえます。
権現山古墳群南側斜面の下にある滝遺跡では、同時代の住居跡も見つかっており、滝遺跡の人びとは権現山古墳群に見守られてくらしていたようです。

 

権現山古墳群から出土した土器。

 

権現山北古墳群(1号墳)の円筒埴輪片や須恵器、川崎遺跡の土器など。

 

横穴墓についての解説も。 

横穴墓(おうけつぼ)をつくった人びと
古墳時代の中ごろになると、古墳は権威ある首長の死を祀る場から、有力な家族の墓へと変化しました。古墳の内部には死後の世界の部屋がつくられたのです。また、吉見の百穴で有名な、崖や斜面の地下に部屋を設ける横穴墓がつくられました。
上福岡には、富士見台と川崎地区に古墳時代終末の横穴墓がそれぞれ3基発見されました。この時期になると、ようやく有力な家族があらわれ、本格的な水田をつくる準備ができつつあったと思われます。

 

中世の板碑も展示。

 

資料館のもうひとつの目玉は、新河岸川の舟運関連展示。

江戸中期から昭和初期までの300年間、江戸と川越を結ぶ物流の主役だった。

 

当然のことながら、河岸(かし)が物流の拠点となっていた。

 

福岡河岸のジオラマ。福田屋(中央)、江戸屋(左)、吉野屋(右)と3つの船問屋があり、隣接して荒物屋・足袋屋・小料理屋・呉服屋が軒を並べていたそうだ。

 

中央石垣の上で、福田屋の三階建て建物は今でも残っている。

 

高瀬舟の5分の1模型もあった。

 

こちらは地場産業として盛んであった「手づくりぼうき」の展示。

 

技を伝える方はもう1人しか残っていないそうだ。

 

資料館の一画には農家の土間の「明るさ」を体感するコーナーも。

 

外には、陸軍用地の標石が何気なく展示されていた。