日下ヶ塚(ひさげづか)古墳へ向かおうとして、前回エントリの坊主山古墳を振り返ったところ。
この後ろはアパートで行き止まりで、写真左の軽自動車の背後の坂道を上がると、「見学路」に合流できた。
大洗市のサイトに紹介されている見学路。
http://www.town.oarai.lg.jp/~syougai/syogai/info-292-288_1.html
訪ねていたときは見学路とは知らず、道の細さに不安になりつつ墳丘らしき木立に向かっていた。
すぐに説明板が現れて、ひと安心。右が歩いてきた「見学路」
日下ヶ塚古墳(別名:常陸鏡塚)は、全長100m級の大きな前方後円墳だった。4世紀後半の築造。
日下ヶ塚(ひさげづか)古墳
昭和28年3月19日指定 茨城県指定史跡
東茨城郡大洗町磯浜町字日下ヶ塚2865番8ほか
4世紀代の姫塚古墳・坊主山古墳・車塚古墳と共に、磯浜古墳群を構成します。別名は、常陸鏡塚(ひたちかがみづか)とも言います。
4世紀後半に築造された全長約103.5mの前方後円墳です。
昭和24年の後円部墳頂の発掘調査により、粘土槨(粘土で木棺を覆った埋葬施設)一基を検出し、人骨と共に、鏡二面・石製模造品53点・玉類・鉄製品22点などの約4100点以上の副葬品が発見されました。
平成24年度には、範囲確認調査を行い、二段築成の前方部や周溝が確認されると共に、墳丘にめぐらせた極長胴化した壺形埴輪が出土しました。
眼前には、鹿島灘が一望にでき、背後には、那珂川・涸沼川水系の河口部がひかえ、坂東東限の水上交通を掌握した被葬者像が浮かびあがります。
平成26年7月 大洗町教育委員会
実測図のアップ。前方部がかなり削られている。
出土した「極長胴化した」壺形埴輪。
埋葬施設の粘土槨からは、大工道具などを模した石製模造品が出ている。
パノラマで。左が前方部、右が後円部。
後円部方向。広い周溝が巡っているのがわかったが、そこは膝丈ほどの草原になっていた。
こちらが前方部。
右の前方部の丘は、もともと左に見える「海防陣屋」のそばまで続いていた。
大洗市のサイトによると、海防陣屋とは江戸時代天保年間に水戸藩第9代藩主徳川斉昭により造られた海防目的の施設。高台の縁に沿って幅約36m、奥行約24m、高さ約1.5~2.0mの土壇状の遺構が残っていて、日下ヶ塚古墳の墳丘を含めて海防陣屋として利用していたものと考えられているそうだ。
海防陣屋の建物は1864年の元治甲子の変(天狗党の乱)により焼失したが、その屋根瓦がここで出土している。
http://www.town.oarai.lg.jp/~syougai/syogai/info-295-288_3.html
確かに眺めのいい場所だった。正面は大洗マリンタワーと茨城港。
パノラマで。
海防陣屋から見た、今残っている日下ヶ塚古墳前方部先端。海防陣屋の土台を造るのに削られてしまったのだろう。
削られた前方部の縁に沿って墳丘へ。
他の場所は膝丈の草で歩きにくい。
くびれ部のあたりでの墳丘を削った跡が激しかった。
この目の前は前方部だったはず。
現在は細長く残っている前方部。
辿って行って、現在の前方部先端から海側を。
前方部から後円部方向。
巨大なクモの巣があった。
気になるブルーシート。崩壊止めか。
後円部に近づく。
墳頂には石碑があった。
石碑の後ろ、北側の眺め。
すぐ先に車塚古墳の墳裾が見えた。両者は100mほどしか離れていない。
鹿島臨海鉄道高架の雄大なカーブ。
後円部の北斜面。
二段築成のテラス部分を回る。
裾に下りて振り返って。
遠望すると後円部墳丘は木々に隠れる。
墳丘も眺めも雄大な、訪ね甲斐のある古墳群だった。
被葬者一族(?)が、遠く見渡す広い土地や海・川の物流を掌握していたであろうことが実感できた。
検索していたら國學院大學の資料もヒットした。
http://www2.kokugakuin.ac.jp/frontier/publication/ob1-8.pdf
またエントリを書いていて、かつて國學院大學博物館で写真に撮った勾玉が日下ヶ塚(常陸鏡塚)古墳出土のものだったと気がついた。
”極長胴化した壺形埴輪”も展示されていたようなので、次の機会に確認したい。