前回の王山(おうざん)古墳群探訪のつづき。
右下の「現在地」から入って40号墳へ上がり、北に半分くらいの4号墳と14号墳を過ぎたところから。
草むらの中の15号墳(方形周溝墓)
斜面と一体化したような16号墳(方形周溝墓)
その斜面下に49号墳(円墳)があるとマップにはあるが発見できず。
そのあたりから王山の西側の眺め。すぐ下を通る福井鉄道の音が時折のどかに響いていた。
15号墳の隣の17号墳(方形周溝墓)
園路に沿って左に48号墳(方形周溝墓)
47号墳(方形周溝墓)
その隣に46号墳(方形周溝墓)
そのあたりにあった説明板。
鯖江台地の王たちのゆくえ
鯖江台地の遺跡や出土品から当時の社会を推定することができる。王山に葬られた人々の子孫はその後、どのような歴史を辿ったのであろうか?
①王山古墳群 弥生中期~古墳時代中期(1~5世紀)
王山にはムラの指導者たちが葬られている。
②王の宝器(有鉤銅釧:ゆうこうどうくしろ)西山公園遺跡 弥生時代後期(2世紀)
青銅製の腕輪が9点出土した。当時としては超貴重品で、鯖江台地一帯を治めた王が誕生したことを示している。
③鯖江台地最大の前方後円墳 長泉寺67号墳、古墳時代前期(4世紀)
全長52m、高さ7m。前方後円墳の築造は、鯖江台地の王がヤマト王権の支配下に入ったことを示す。ヤマト王権は鉄や技術を与えるかわりに、貢物や斃死の動員を義務付けたと考えられている。
④北陸最大級の大型円墳 兜山古墳、古墳時代中期(5世紀)
直径70m、高さ9mの墳丘の周囲を幅17mの周濠が巡っている。巨大な古墳だが、前方後円墳ではないことから、鯖江台地の王がヤマト王権と疎遠になったことを示しているのだろう。
46号墳と園路を挟んで右側に、45号墳(方形周溝墓)
その先に22号墳(方形周溝墓)
その奥の斜面には比較的大きな円墳の21号墳。
21号墳はぐるりと回った斜面上側の園路沿いに説明板があった。
古墳時代前期の円墳だが、鎌倉~室町期にまで再利用されている。
王山21号墳と集石墓(しゅうせきぼ)
古墳時代前期の円墳である。規模は直径19mで、山側には幅3.5mの周溝がめぐる。埋葬施設は未調査である。
この古墳の上には、鎌倉時代~室町時代末期(13~16世紀)に14基の集石墓が作られている。これは他で火葬した人骨を壺や木箱などに入れ、それを穴を掘って納めて上部を石で覆った墓である。
21号墳と園路を挟んで20号墳(円墳)
20号墳の奥の斜面に、30,31,50,51号墳(すべて円墳)があるはずだがわからなかった。このあたりはもう山裾になる。
20号墳の東側に29号墳(円墳)
園路に戻って28号墳(方形周溝墓)
園路を挟んで23号墳(方形周溝墓)
23号墳の隣に27号墳(方形周溝墓)
その隣には形が明確な25号墳(方形周溝墓)
園路を挟んで26号墳(円墳)
25号墳の隣に24号墳(方形周溝墓)、その間の53号墳(円墳)は見つけられなかった。
24号墳と並んで19号墳(方形周溝墓)
19号墳と並んで5号墳(方形周溝墓)
辿ってきた園路を振り返って。中央が5号墳、左に4号墳。これで一周した。
上記の右側、園路を挟んで52号墳(円墳)があるはずだが崖になっていた。
ということで、番号の振られた53基のうちの8割方は回れたのではないか。
ちなみに、番号を探して巡るプロセスは楽しいのだが、最後を詰めようとすると大きな労力がかかることを過去に学んでいる。
四道将軍伝説についての解説もあった。
四道将軍伝説
3世紀、王山に墳墓が造られた頃はムラからクニへ地域が統合されている時代であった。なかでも強大であったのが大和地方(奈良盆地)のヤマト王権で、次第に地方へ勢力を伸ばしていった。これは「古事記」「日本書紀」などにも表現されている。
「崇神天皇の時代、大彦命を北陸に遣わし、武淳川別を東海に遣わし、吉備津彦を西道に遣わし、丹波道主命を丹波に遣わした。そして従わない者があれば、ただちに戦争を起して討伐せよと仰せられた。こうして、ともに印綬を賜って将軍に任命した。」(日本書紀)
「大彦命が深江の逢山(おうざん)で神に祈ると、空から佐波之矢(さばのや)が落ちてきて賊の大将に当たり、降伏しないものをことごとく平定した」(舟津社記)
ここでいる「賊」とはヤマト王権に従わなかった地方勢力を表現しており、もともと鯖江台地に勢力を持っていたクニの王と考えられる。王山古墳群の墳墓はそうした王やその祖先たちを深い関係を持っている。
帰路は王山の西側へ下った。途中にあった祠。
前日に来て引き返した場所に出た。ツアーの集合時間までまだあったので、少し散歩することに。
そこからの道は鯖江高校に続いていた。
校内を抜けないと先へ進めないので通らせていただく。
西側の校門から出て坂を下る。
福井鉄道福武線の「サンドーム西」駅へ。
つづく。