墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

大瀧神社・岡太神社 福井県越前市大滝町

前回のつづき。

次に向かったのは古墳ではなくて神社。

以前に写真集で目にして、一度訪ねたいと思っていた大瀧神社・岡太(おかもと)神社は越前市内にあった。

 

駐車場脇にあった解説。

紙祖神 川上御前の伝説由来
今から1500年前、男大迹皇子(継体天皇)がまだ越前におられた頃のことです。
岡本の在に、ある日みめ麗しい姫が現われて、この村里は田や畑が足りなくてさぞや生活に困るであろう。しかし、この村は清らかな水に恵まれている。これからは、その水で紙を漉いて生活を立てるがよい、と語り告げ、姫は衣を脱いで竿に掛けねんごろに紙の漉き方を授けました。村人はすっかりこれに感激して、いったいどなたですか、どこからお出でになったのですか、と姫に問いかけたのです。
しかし、姫は、わたしはこの土地の者だよ、と答えたまま、さりげなく岡太川の上流へ姿をかくしてしまいました。村人はこれは大変いいことを教えて頂いたものだと、それ以来紙漉きを始めたそうです。
これが今もなお岡本五箇荘(大滝・不老・岩本・定友・新在家)に伝わる越前和紙の起源とされています。
のちに村人はこの姫を「川上御前」と呼び、その徳をあがめて岡太神社に祀るようになりましたが、この神こを我が国での紙祖の神として、全国の手漉紙業者に尊崇されるようになっています。
なお、この土地では正月に行う紙の漉き初めに、かの女神の業をしのんで紙漉場の竿には脱いだ上衣を掛けておき、5月5日の祭礼には岡太川の上流を訪れて、古い歴史に想いを馳せる人もあります。
大滝神社 岡太神社

 

境内は山際にあって社殿は少し高い位置にあり、正面に対すると、1994年に廻廊とともに造営された神門の向こうに一部だけ見える。

 

斜面の燈籠を横目に見ながら石段を上がる。

 

神門の向こうに社殿が現われた。まずは参拝。

 

屋根が凄い。昭和59年に重要文化財に指定されている。

 

以前に写真を見て驚いたが、実物は予想以上に圧倒的だった。

全景を収められるのはこの位置からのみ。

境内にはもう一人、大阪からの方がおられたが他に参拝者はおらず、二人してポイントを代わりながら夢中になって写真を撮ってしまった。 

 

前部の拝殿は入母屋造りで、屋根の三角が見えるほうから入る「妻入り」

その妻側からもう一段前に唐破風が飛び出している。

 

拝殿の後ろ側の本殿は、基本は切妻屋根で三角が側面として直線の庇の下を入る平入り(ひらいり)で、手前側の庇が長くなる「流造(ながれづくり)」

その本殿から拝殿に接続する屋根の上に、さらに2重に、入母屋型と唐破風型の屋根がかぶさっている。

 

側面から見たところ。

 

斜め前からアップ。複雑な曲面が檜皮葺きで流麗につくられている。

 

手前から、唐破風、照り破風(凹型曲線)、唐破風、照り破風、本殿の棟と連なる。

 

反対側の側面。

 

屋根下の組物にも圧倒される。

 

本殿の壁の彫り物も見事。

 

これを建てたのは大久保勘左衛門という棟梁だそう。

下記のサイトによれば、曹洞宗道元禅師が宋国より帰朝のとき随伴した建築技師玄盛繁を祖とする「志比大工」の棟梁で、天保12~14年(1841~1843)の3年をかけて造営していたとのこと。永平寺の唐門(勅使門)も手掛けた名棟梁。

http://news-sv.aij.or.jp/hokuriku/m1ah/ah39/03series/kakuken39-f.htm

 

境内のすぐ外には文化庁による案内板があった。大瀧神社が所有する6haが、文化財保護・修理資材安定的確保のための「ふるさと文化財の森」に指定されている。

上記の看板の地図の森の手前には「大瀧神社奥の院本殿」と「岡太神社奥の院本殿」が記されている。

 

こちらは境内西側の鳥居。扁額には右から岡太神社、大瀧神社と書かれている。

いま参拝した社殿が大瀧神社だとすると岡太神社はどこに、と思って門前を清掃していた方に聞くと、さきほどの社殿が山の上にある2つの神社の両方の里宮(下宮)になっているとのことだった。

奥の院への所要時間を伺うと、前日にその参道に猿が30匹出たと聞いたので遥拝だけとした(グーグルマップで見ると徒歩18分)

 

こちらが神社の御由緒。

 

鳥居の前の標柱の解説が、短くてわかりやすかった。

岡太神社は1500年程前、紙漉きの技を伝えた女神・川上御前を全国唯一の紙祖神として祀る。大瀧神社は泰澄大師が大滝寺を建立し、国常立尊伊弉諾尊の2座を祭神とし、十一面観音をその本地仏とする神仏習合の歴史を持つ。

 

そのそばに、もう少し詳しい解説板。 

紙祖神(しそじん)
岡太(おかもと)神社・大瀧神社
紙祖神 川上御前をお祀りする岡太神社は、延喜式神名帳(927)にも記載されている古社です。
大瀧神社の発祥は、推古天皇の代に大伴連の勧進に始まり、養老3年(719)に泰澄大師によって、川上御前を守護神とし十一面観世音菩薩を本地とする大瀧兒権現・大瀧寺が創建された事に始まります。
天正3年(1575)に織田信長配下の滝川一益によって全山悉く灰燼に帰しましたが、直後に府中三人衆(前田利家佐々成政・不破光治)によって「大瀧神郷紙座」が安堵され、再興されます。
明治になり、神仏分離令によって大瀧兒権現・大瀧寺は大瀧神社と改称され、現在に至っています。
天保14年(1844)に再興された下宮の本殿・拝殿は、昭和59年に重要文化財に指定されました。

 

最初の駐車場脇看板の解説にあったように、古墳時代継体天皇(450年?~531年?)の代あたりに紙漉きの技術がもたらされたことがきっかけで、まず「岡太神社」が創建された。

奈良時代神仏習合を進めた泰澄大師によって「大瀧寺」がここに再興して中世には七堂伽藍立ち並ぶが兵火で失われ、近世には歴代領主が復興するも明治の廃仏毀釈に遭い、大瀧寺は「大滝神社」と改称される。大正末期に大蔵省印刷局抄紙部に川上御前の分霊が奉祀され、岡太神社は全国紙業界の総鎮守となった、という複雑な歴史。

Wikipedia「大瀧神社・岡太神社」によれば、神社の格としては大瀧神社の方が上だが、住民達が崇拝してきたのは川上御前であったため「大瀧神社・岡太神社」と並記していると考えられている、とあった。

 

紙の歴史は「文書」の歴史でもある。

Wikipediaの「和紙」の項には次のような記事もあった(一部を抜粋)

製紙技術の歴史は、中国「後漢」時代の蔡倫の改良から始まる。中国から日本への製紙技術の伝来は、推古天皇18年(610年)、高句麗を経由してされたとされる。公式記録として確認できる記述は『日本書紀』にある。また、継体天皇7年(513年)、五経博士百済から渡来し、「漢字」「仏教」が普及しはじめ、写経が仏教普及の大きな役割をはたしていたことからこの頃すでに紙漉がいたのではないかと推測される。

 

境内をあらためてよく見ると西側に解説板のある建物があった。

 

十一面観音像の解説がある。

有形文化財 木造十一面観音座像 1躯
大滝神社(大滝区) 像高90cm
昭和61年8月12日 町文化財指定
大滝神社文書「大滝権現開帳記録」や「大滝権現明細帳」等に記されている奥の院十一面観音、末社龍児権現本地にあたる観音像であろうか。現在は観音堂(絵馬堂)に安置されているが、像容は左手臂を屈し、掌には蓮華を持し、右手は膝上で掌を延ばし、頭部には最上部三面、下部七面の仏頭が飾冠されている。その胸や両腕は厚手にして豊満に仕上げられ、衣文等も単調であるのは、補修や彫り直しのためであろうとも考えられるが、尊顔などは往時のままであり、全体として平安時代前期の尊容を今にとどめている。
越前市教育委員会

 

絵馬堂とあるように絵馬がいくつも奉納されている。 

 

ガラス越しに十一面観音を参拝することもできた。

 

付近には古い街並みが残る「越前和紙の里」があって、博物館を見たり紙漉き体験ができたりするようだったが、時間の都合で次の機会とした。

http://www.echizenwashi.jp/information/areamap.html

 

神社から1.5kmほど西に戻って平野に出たところで。

 

西方向をズーム。古墳がありそうな山々。

つづく。