墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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漢城百済博物館(後編) ソウル特別市松坡区芳荑洞

前回のつづき。

百済時代のメインの展示は階段を上がって2階の第2・第3展示室になる。

入ってすぐに百済の王都であった漢城(風納土城と夢村土城)のジオラマ展示。

 

漢城の想像鳥瞰図。左上が風納土城、右下が夢村土城。左下の四角が石村洞古墳群。

上記は漢城(Hanseong)についての概要だったが日本語訳は無かったので英語部分を(漢字を付加)

Hanseong(漢城), the first capital of Baekje(百済), occupied present-day Songpa-gu(松坡区) and Gangdong-gu(江東区). Hanseong is comprised of Bukseong(北城~Pungnaptoseong Fortress:風納土城) where the royal palace was located, and Namseong(南城~Mongchontoseong Fortress:夢村土城)where an annex palace was situated. Lacated within the castle were royal palaces, official buildings, homes of the royal family members and the nobility, defense facilities, and the dwellings of commoners. Outside of Hanseong there were numerous homes of commoners, farms, and facilities for economic activities. Furthermore, to the south of Hanseoung, there was a cemetery for kings, members of the nobility, and commoners in present-day Seokchon-dong(石村洞), Garak-dong(可楽洞), and Bangi-dong(芳荑洞), Seoul. 

 

ジオラマは壮大だった。右手前が夢村土城、奥が風納土城。 南側上空から。

 

夢村土城を北東側から。土塁は地形をなぞって造られているようにみえる。

 

風納土城を北側から。漢江に浮かぶ要塞のよう。

 

Wikipediaによれば、南北約1.5km、東西約300mで、土城として朝鮮半島最大規模だったとのこと。3世紀前後の様子、つまり日本では弥生時代の末頃。

 

百済国内の主な交通路と、各地で出土した土器。

 

日本語の解説があった。

拠点の山城が築かれたのは、川の本流が支流に分かれる、交通の要衝だった。

百済は3世紀中葉、韓半島中部地域を掌握し、4世紀後半には、北に黄海道一帯、南に南海岸まで勢力を伸ばし、全盛期を迎えた。百済は地方に拠点となる城を建設・統治した。拠点の城は主に山城であり、川の本流から支流が分かれる交通の要衝に配置された。百済は初期の段階から漢江の水路を確保し、西海岸の航路を開拓した。楽浪と帯方が滅亡した後は、西海岸の海上権力を独占し、中国と日本との交流を活発に行った。


庶民の住居は、長細い六角形。残念ながらハングルのみ。

 

「地方支配」とタイトルされたコーナー。

 

忠南・公州の水南里古墳群出土の金銅冠帽(5世紀)右がレプリカ。

 

日本の古墳からも出土している金銅製の靴(左はレプリカ)

 

鉤帯金具や金の耳飾り。このような荘厳の品、「威信財」で地方豪族を味方につけていったということだろう。

 

須恵器や「骨製礼甲」の展示も。甲の腰周りは動物の骨を板状に削ったものを連ねている。

 

群馬県の金井東裏遺跡で火砕流跡から出土した小札(こざね)鎧は、もとは上の写真のような形だったのか。

 

 百済人の暮らしのコーナーへ。 

百済の人々は主に菜食をし、穀物に火を加えて、調味料はほとんど使用しなかった。上流階級は主に六角形の家に住み、宮殿、官庁、寺院などの建物には瓦が使われることもあった。百済の衣服は上着、ズボン、スカートが基本形の、高句麗のものに類似しており、金銅冠、金銅靴などで貴族の代表される装身具が使われた。

 

柱と梁、壁と屋根がある宮殿の造り。

 

百済時代の宮殿内部の様子(実物大)

 

服装についての展示。

 

食卓の様子。

 

「遊びと風習」のコーナーには碁盤のようなものも。

 

百済時代の生活の様子。

 

 日本に金銅仏がもたらされたのも百済から(これは公州・松亭里からのもの)

 

そしてその先には、なんと墳墓のコーナーがあった!

 

日本語訳も。

百済では人の死後、土坑墓、積石塚、墳丘墓、石槨墓、石室墓などに埋葬された。土坑墓はもっとも一般的であり、積石塚は百済の上流階級の墓制である。墳丘墓は二人以上の多葬墓制であり、石槨墓は地方で多く使われた。石室墓はもっとも発達した古代の墓制で、おもに上流階級に使用された。

 

時代での変遷ではなく同じ百済の時代においての、階級の違いや地域の違いで分類されていた。

 

土坑墓は”もっとも一般的”な形。穴を掘って木棺を埋め、蓋に石をおいて土を地表より少し高くなるように盛っている。

 

墳丘墓は「二人以上の多葬墓制」である点は日本の墳丘との違いを感じた。

ジオラマでは壺に入れて(木箱の中に壺が納められたものもある)上から土をかぶせたように見えるが、後から亡くなるたびに新たに上から掘ったのだろうか。

 

積石塚は、造っている場面と葬儀の場面とが現されていた。

 

石槨墓が多かった地方とはどのあたりだろう。日本の古墳時代(前期)のタイプに近いのでは。

 

「もっとも発達した墓制」とあった石室墓。

 

天井はドーム状に持ち送りで石が積まれている。

 

石槨墓と石室墓の説明はハングルのみ。

 

「墳墓の副葬品」のコーナー。地図でみると可楽洞古墳の出土物かも。

 

さらに鉄器のコーナーへと続く。

 

日本語解説も。

百済は優れた製鉄技術に基づいて様々な鉄器を製作した。とくに高度な象嵌技術をもって七支刀(チルジド)を製作し、倭の王に渡した。鉄製の農具の使用は、農業における生産力の増大をもたらし、国家体制の安定に寄与したし、鉄製の武器は、他の国と戦争する時役に立った。

 

七枝刀の展示を探したが見つからなかった。図録はあったが。

 

京畿・金浦の陽村邑から出土した鉄剣など。

 

馬具や武具。

 

この板甲(Iron plate armor)は、京畿・安城の望夷城の出土。

 

百済は海洋国家でもあった。百済船の実物大模型。 

 

「日本との交流」 のコーナーも

 

熊本の江田船山古墳出土の金銅冠帽のレプリカ。

 

そのとなりには、全北・益山の笠天里出土の金銅冠帽。模様は異なるが形は同じ。

 

これも江田船山古墳出土の金銅飾履のきれいなレプリカ。

 

こちらは上野の東京国立博物館の常設展示。江田船山古墳の金銅製沓。

 

同じく金銅製冠帽も(下記の1番)

 

同古墳出土物は、3番の金銅製冠や4・5番の金製耳飾などを含め、一括して国宝に指定されている。もちろん銀象嵌の大刀も。

 

ソウルの漢城百済博物館に戻して・・・

538年、百済の聖王(ソンワン)は熊津(ウンジン)から泗沘(サピ)へと都を移し、国名を南扶余(ナンプヨ)に改名した。泗沘期(538~660)は、百済の全歴史の18%を占める。泗沘遷都以降、百済は中央と地方の統治制度を完成させ、洗練された様々な文化を享受した。そして倭に仏教など様々な文物を伝えた。現在も日本各地には百済関連の遺跡が残っている。 

 

最後の展示室を出たところに大きな壁画が展示されていた。

 

「高句麗 古墳壁画」と。

 

実物大複製だとすると巨大な石室。キトラ古墳の「石槨」サイズとは規模が違う。

 

石室の縮小模型もあった。奥壁から玄門側の右手に、複製のあった朱雀。

 

朱雀と奥壁の間に白虎とある。つまり大きいほうの複製は白虎。

 

解説はハングルのみでわからなかった(写していなかった)が、たまたま下記のサイトにある写真(東京藝大による複製)で、北朝鮮に残る高句麗後期の江西(カンソ)大墓(6世紀末~7世紀:直径51m円墳)の壁画であることがわかった。

http://www.ryuss2.pvsa.mmrs.jp/ryu-iware/sisin/sisin-koukuri.html

 

展示が残っていたのは、漢城百済博物館では2017年初に「高句麗の古墳壁画」展を開催しているのでその名残りだろう。

https://www.seoulnavi.com/special/80001942

 

日本において古墳の代名詞のように著名な高松塚古墳やキトラ古墳(7世紀末〜8世紀初)は、装飾(絵画)の技術がそれまでの古墳とは隔絶しているが、この高句麗系からの流れが入ったのだろうと実感した(他を経由したり、大元が別にあったりするのかも知れないが)

 

 

以上で展示は終了。

韓国と日本との深いつながりを実感できる内容で大変興味深かった。

漢城百済博物館の公式サイトはこちら(ハングル・英語)

http://baekjemuseum.seoul.go.kr/eng/contents.jsp?mpid=SEM0101000000

日本語ではコネスト韓国に詳しく紹介されていた。

https://www.konest.com/contents/spot_mise_detail.html?id=5887

 

建物最上階は外に展望台があった。

周囲はオリンピック公園だが、かつての夢村土城の土塁の一部が残っている。

 

土塁の部分のアップ。

公園内には他にも、夢村歴史館(子供向けの現場体験博物館)や百済竪穴住居址展示館(百済六角形住居跡遺構発掘現場の再現)など面白そうな施設があったが、すでに家族との待ち合わせ時間に遅れ気味だったので次の機会とした。

 

西方向には「ロッテスカイ」

 

その右には漢江南岸に壁のように立ち並ぶ、高層マンション群。 

 

博物館を出て、最寄の地下鉄8号線の夢村土城駅(徒歩10分)へ向かった。途中の大きな池はかつての漢江の流路跡のようだ。

 

不思議な頭のマスコット(左)

 

オリンピック公園の西側の門。ソウル五輪はちょうど30年前の1988年開催。

 

上記の位置から振り返って。

(2018年8月訪問)