墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

石村洞古墳群(前編) 大韓民国ソウル特別市松坡区石村洞

前回のつづき。

石村洞古墳群(ソクチョンドン ゴブングン:서울석촌동고분군)は、ソウル特別市の漢江南岸、ロッテワールドの南側にある。

最寄りは地下鉄8号線の石村駅で、ソウル駅からは45分ほど。駅からは6番出口から西に400m弱の場所。

 

 旅行するにあたって、こちらの本を見ていて、ソウルに古墳があることを知った。

 

 

いくつかある公園への入口。常時開門タイプのようだった。

 

243の数字があるので、大韓民国指定史跡第243号と刻まれていると思われる。

 

入ってすぐに、平たくて大きな積石塚が現われた。

 

古墳群の説明板。

ソウル石村洞(ソクチョンドン)古墳群

指定番号:史跡第243号
石村洞古墳群は百済初期に造られた積石塚である。1916年には約90基あったが、現在は4基しか残っていない。外観には高句麗の影響が見られるが、内部構造は百済固有の様式となっている。

 

感嘆の声を漏らしながら左回りに巡る。 

 

ロープが張られていて近づけないのでズームで。

 

グーグルアースで。軸はぴたりと南北・東西を向くようだ。

 

北東の角。

 

北側の辺。上部が平たい正方形が3段積まれ、最上段の中央が少し盛り上げられていた。

 

振り返ると北側の出入口。道路の突き当たりにロッテワールドの建物が見えている。

 

南側は高層マンションが林立していた。右が北西の角。

 

北西の角(左)と西側の一辺。

 

古墳公園の東側にも背の高いアパート。

 

南側から。基壇の一辺は50m程もある。

 

南東の角とロッテワールドタワー「ソウルスカイ」

タワー123階の展望台から古墳群を眺めたかったが時間が取れなかった。

 

南東側に、この「石村洞 第3号墳」の説明板があった。築造された4~5世紀はまさに日本(倭)の古墳時代

石村洞 第3号墳
この墓は東西の長さ50.8m、南北の長さ48.4mと推定される方形の階段式積石塚である。山から採集した大きな石を割って3段以上に築いている。1980年代中頃まで、数軒の民家が墓の上にあったため、墓の高さを正確に知ることはできないが、最低4.5m以上だったと思われる。
墓は土を均した後、40~50cmの厚さで泥を敷いて固め、その上に小石や基礎石を交互で敷いた。その後、大体40cm以上の割石と小さな板石を横にして積み上げた。墓が損傷を受けてからの発掘調査が行われたので、遺体の安置場所は特定できなかったが、墓の周辺から中国・東晋時代の陶器片、金製の小さな装飾、百済の土器片などが収拾された。
第3号墳は4~5世紀の百済王の御陵だったと考えられる。学界では近肖古王(346~375)の墓ではないかと推定している。

 

石村洞古墳群については、Wikipediaの解説がわかりやすかった。下記、そこから端折って。

石村洞古墳群は、百済が漢山城(漢城)にあった時代の百済の王族・貴族の墓と推定されるそうで、漢山城の遺構とみられる風納土城・夢村土城跡が2~3km北東(漢江南岸)にある。

現在の石村洞古墳は1970~80年代に都市開発を受けて現在8基の古墳しか残っていないが、1917年の地図には一帯に290基ほどが見られ、戦前の調査では積石塚66基と墳丘土壙墓23基があったとのこと(現地解説板にある90基の数字はこちらの方か)

基壇の上に割石・板石を積み上げる「基壇式積石塚」は高句麗地域で知られるため、百済の建国勢力が高句麗から南下したという文献情報と一致するとされる(ただし時期に大幅なズレ)が、古墳自体は高句麗式とは相違が見られるため「百済式積石塚」とも呼ばれるそうだ。

 

 

3号墳の南側には、一辺が3分の1規模の4号墳。 

 

4号墳説明板。

石村洞 第4号墳
第4号墳の最下層の基壇は長さ17mであり、方形の3段の階段式積石塚である。外観は積石塚に見えるが、伝統的な高句麗式積石塚とは異なるので、百済式積石塚とも呼ばれている。
1974年の発掘調査によると、最上段の第3段に東西4.6m,、南北4.8mの正方形の石室と幅約2mの羨道が形だけのものが象徴的に配置されていたと推定した。しかし、1984年の整備・復元のための再調査により、本来土を均(なら)して築いた墳丘を、外側だけ積石塚に変更したことがわかった。
遺体を安置した痕跡として、土を均して築いた3ヶ所が確認された。墓からは特別な遺物は見つかっていないが、石塚からは煉瓦、土器、瓦などの破片が発見された。石積みの方法から見て、石室を築こうと試みたものと考えられる。4~5世紀頃の墓と推定される。

 

上部に土盛りがある形で親しみを感じた。

 

トンボも写った。

 

手前が4号墳、その右奥にさきほどの3号墳。

 

そこから振り返っての2号墳は散策路が墳丘と近く、目の前で観察することができた。

 

北西側の角。

 

北東の角(右手前)

 

2号墳の説明板。

石村洞 第2号墳
第2号墳は1985年、石村洞百済古墳群整備計画により復元された。それ以前は、民家や石垣の隣にある、石に覆われた小山のように思われていた。
外観は積石塚であり、内部は土の詰められた百済式の積石塚である。本来、墳丘だったのを後の時代に積石塚に外観を変更した第4号墳とは異なり、最初から封土の上を石で覆ったものと考えられる。
1987年の発掘調査によると、石塚は基壇部の1mほどが、内部の土は高さ3.8mほどが残っていた。これに基づき、3段の階段式石塚を復元した。西北の角から1つの木棺が発見されたが、穴素掘らずに木棺をいれ、小さな封土を造ったのである。これにより、封土木棺墓を先に造って後に拡大したことがわかる。
木棺墓と西南の墳墓の中からは3世紀末の物と推定される高杯と直口壺(jars with straight mouths)が出土した。

 

上記にある「外観は積石塚であり、内部は土の詰められた百済式の積石塚」、発掘された・・・で、藤岡市の古墳の説明の際

 

2号墳の南側から。左奥に4号墳、その右奥に3号墳。

 

ソウルの歴史を再びWikilpediaでみると、紀元前後から馬韓帯方郡を経て、百済(約100年間)~高句麗(約200年間・王都は平壌)~新羅(約270年間・王都は金城:慶州)~高麗(約450年間・王都は開城)~李氏朝鮮(約500年間)と、近代以前から都としての歴史が続いている。

朝鮮半島で最初の国がが確認できるのは衛氏朝鮮(前194年~前108年)で、それを漢の武帝が滅ぼして楽浪郡など漢四郡を置いた。楽浪郡以外は早くに廃止・移設されたが、204年には新たに帯方郡(~313年)が置かれた。この帯方郡が置かれた場所が現在のソウルという説がある。

・現在のソウルを最初に王都とした国は百済(4世紀前半~660年)で、371年に漢山城(漢城:今のソウル松坡区)を都と定めた。

 百済以前は、百済と重なる地域に三韓時代(馬韓弁韓辰韓:1世紀~5世紀)の馬韓があり、馬韓内の五十余国の内の伯済国が百済になったとする説がある。

百済漢城は475年に高句麗軍によって陥落。百済は南の熊津(公州)などに遷都したが、660年に唐と連合した新羅に敗北して滅亡。その後、鬼室福信らによって百済復興運動が起こり、倭国が援軍を送った白村江の戦い(663年)となるが、唐と新羅の連合軍に惨敗した。

新羅は668年に高句麗も滅ぼして統一新羅時代に。新羅の王都は金城(後の慶州)だったが、漢城は757年に漢陽(ハニャン:漢江の北側の土地の意)と改称された。

・10世紀になると新羅には地方勢力が後高句麗後百済を立てて後三国時代となり、後高句麗を滅ぼした高麗が新羅を倒して後三国を統一した(936年)

・高麗は開城を王都としたが、漢陽は高麗初期に「楊州」に、その後に「南京」と改称された。高麗は13世紀に元の支配下に入る。

・1392年に高麗の将軍であった李成桂李氏朝鮮を建国すると再びソウル「漢城府(ハンソン)」が王都になり、その後500年にわたって李氏朝鮮王朝の都となっている。

(Wikipediaのさまざまな項目から抜書きしましたが正確性は担保できません。誤りはご指摘いただければ幸いです)

 

石村洞の古墳群は李氏朝鮮時代以前に、ここが国の首都として輝いていた4~5世紀・百済時代に築かれたものだった。