前回の梁瀬二子塚古墳見学後、東に移動して珍しい八角墳の三津屋古墳を訪ねた。
南下古墳群から東に1km半の場所。
南下古墳群へは昨春訪れた。
県道15号から枝道に入ると、三津屋古墳には駐車場もあった。
そこにあった説明板。
群馬県指定史跡 三津屋古墳
場所:群馬県北群馬郡吉岡町大久保字三津屋2037-1番地他
指定年月日:平成7年3月24日 追加指定:平成13年3月23日
本古墳は、全国でも極めて数の少ない(正)八角形墳である。
墳丘は二段築盛で周堀を持ち、その規模は墳丘対角間で約23.8m、残存高約4.5mである。八角形の一辺の大きさは下段で約9m、上段で約6mを有する。墳丘の企画設計にあたっては唐尺(一尺≒30cm)が使用されたことが推測される。墳丘下段の縁辺部には列石が配され、上段は扁平な川原石で丹念に葺かれている。
石室は破壊されていたが、奥壁石や側壁根石の抜き取り跡から、一部切石を用いた自然石乱石積の横穴式石室であったと思われる。副葬品により発見できなかった。
八角形の企画は、玄室奥壁を中心として石室主軸をほぼ真北に向け、八等分している。
古墳の年代は、八角形の墳丘構造、石室の特徴から7世紀後半と考えられる。
八角形墳の存在は7世紀中頃から8世紀初頭にかけての畿内地方の天皇陵古墳、あるいはそれに準ずる古墳に代表される。ただし、これらの多くは発掘調査により、本来の姿が確認されたわけではない。その意味でも八角形の墳丘形態が確認できた三津屋古墳の資料的価値は高い。
本古墳は、調査時の葺石・列石・盛土を一部修復し、欠失部分は調査結果から復元した。また、古墳内部見学施設は、石室内部見学施設は、石室根石状況ならびに土層断面を発掘調査時のまま展示した。
平成21年12月 群馬県教育委員会 吉岡町教育委員会
実測図部分のアップ
植え込みの向こうには砲台のような墳丘があった。
斜面を下りていくとロープで囲われていた。
右に回り込む道を進むと、下の基壇の石積みが。
斜面下、南側の正面に回り込むと石室入口があった。イージス艦の艦橋のようでは。
パノラマで。
左奥が回り込んで来た道。
一段目は、葺石というより石垣のように復元されている。
刈り込まれて間もないのだろうが、雑草はよく育つ。
いざ石室入口へ。
精密に加工された切石が精緻に積まれている。
ドアノブには8時から17時まで開錠とあった。この時点で8時半ぐらい、8時からで良かった! 吉岡町教育委員会のみなさま、朝早くからありがとうございます。
まさか中に入れるとは思っていなかったので驚いた。
説明板にあったように石室石材の多くは抜き取られている。見学施設は石積み外側の土も中から削った状態を見せている。 手前に柵があり、玄室内へは入れない。
削った壁には版築の跡が見て取れる。
側面の階段を上がって奥壁に近づく。
対面する壁にも説明パネルが。
上段墳丘は扁平な川原石で葺かれ、八角形の角は大きな川原石を積み上げることで八角形を強調している。
古墳の盛土は版築様の工法で、10~20cmの厚さでつき固めながら仕上げている。
八角形の企画は玄室奥壁を中心として八等分している。
石室
残っていたのは石室の奥壁と側壁を構成していた根石の一部とその裏込め石で、他の石はすべて持ち去られていました。しかし、石を抜き取った跡に残る窪みなどから、本来は一部に切石を用いた自然石主体の横穴式石室だったと考えられます。奥壁部分に残った大きな石には割って持ち出そうとした傷跡が認められます。
奥壁に近づくと、石を割ろうとした跡がよく観察できた。
土層について
古墳の盛土は本来見ることはできませんが、三津屋古墳では盛土断面をそのまま展示しています。盛土は、10~20cmほどの厚さで横縞状(板状)になり、搗き固めながらていねいに土を積み上げている様子がよくわかります。この積み方は寺院の建物基壇などに用いる「版築(はんちく)」と呼ばれる工法によく似たもので、通常の古墳と異なる本古墳の特徴の一つになっています。
土層の上部にあたる灰色の土は盛土のしまりを良くする工夫かと考えられ、また中ほどにある黄色の土は石室天井石を覆った粘土と考えられます。
黄色の土層もよくわかった。
入口方向を振り返って。
パンフレットも用意され、非常に充実した展示施設だった。
古墳の南側の土地には入れないので、周囲を一回りして正面から。
ズームで。
八角墳で有名なのは天武・持統天皇陵(野口大墓古墳) 石舞台古墳を見た際に遠望した。
同じく飛鳥の牽牛子塚(けんごしづか)古墳も八角墳。
東京都多摩市の稲荷塚古墳も八角墳。