7月中旬に住宅遺産トラスト主催の住宅見学会に参加した。
池上線の久が原駅と都営浅草線の西馬込駅との間、どちらからも徒歩14,5分の閑静な住宅街にある数江(かずえ)邸。
昭和14年(1939)の竣工で、設計は当時ヴォーリズ事務所東京事務所長だった松ノ井覚治(1896~1982)
道路からは見上げる位置に土台があるが、木造平屋建て(一部二階建て、地下付き)
内部は撮影不可だったので外観のみ。現在も戦中からの所有者の親族が住まわれている。
門から左に階段を数段上がり、アーチを入ってさらに右に上がった先に玄関扉があった。
設計者の松ノ井覚治を検索すると、Wikipediaには、東洋英和女学院やマッケンジー邸なども手がけたとあったが、下記の2年前の展覧会のチラシがわかりやすかった。
http://www.museum.kit.ac.jp/img/20161003m.pdf
「松ノ井覚治の建築ドローイング ~ニューヨークで学んだボザール建築 」@京都工芸繊維大学美術工芸資料館・2016年10月3日~21日
松ノ井覚治(1896-1982)は、1918 年に早稲田大学理工学部建築学科を卒業したのち、アメリカン・ボザールと呼ばれる歴史主義建が全盛だった 1920 年代初頭のニューヨークで意匠設計を学び、設計の実務にも就いた奇特な経歴を持つ建築家です。村野藤吾(1891-1984)の早稲田大学時代の同級生としても知られ、1932 年に帰国した後にはヴォーリズ建築事務所の東京出張所長として本場仕込みの腕を振るいました。
ニューヨーク時代、松ノ井は「銀行建築家」と呼ばれたモレル・スミス建築事務所の一員として多くの銀行建築に携わり、1930 年に設計主任として携わったマンハッタン銀行本店では、高さ世界一を競った超高層ビル(現・40 ウォール・ストリート)の主階に、銀行本店にふさわしい華麗な装飾に包まれる美しい空間を作り上げました。渡米10年程の青年建築家がこれほどの大きな仕事をやり遂げるまでには、アメリカの建築界に受け容れられる実力を養うための鍛錬があったことは想像に難くありません。
1930年に当時世界一を競った摩天楼の設計主任となっていた日本人がいたとは。
その松ノ井はスパニッシュの意匠を得意としていたそうで、この数江邸の玄関アプローチには大きなアーチがあったり、回廊的な雰囲気があったりと、スパニッシュと和風とが融合した独自の洋風デザインにまとめられている。説明で伺ったが、日本建築のスパニッシュ風はアメリカを経由して入ってきたとのこと。
玄関から中に入ると内部は「モダンな数奇屋デザイン」に溢れる。
左右に通路があり、右は洋風の応接間を経て寄り付き、土間から茶室棟へ、左は少し上がって右に曲ると座敷と茶室へつながる廊下があるが、壁を隔てて2本の廊下が平行し、客人用と家族用とが別の動線になっていた。
建築面積305㎡、延べ床面積406㎡ にもなり、外観からの想像以上に奥深く広がる建物だった。
当初の建築主は輸入雑貨などを扱った亀井武夫氏で、茶の湯が趣味であった夫人のために茶室を中心とする造りとした。
昭和16年(1941)に数江家に譲渡され、昭和23年に当主となった数江教一氏に引き継がれた。2003年に他界後は夫人が所有し今でも住まわれている。
数江教一氏は日本倫理思想史を専門とする中央大学文学部の教授であったが、「わびー侘茶の系譜ー」や「茶の湯教室」などの著作があり、瓢鯰子という名をもつ数奇者でもあったそう。
はじめにお座敷で話をうかがい、2班に分かれて見学。2班目だったので最初はスタッフの方(?)にたてていただいたお茶を味わいながら待機。暑い日だったので大変だったと思いますがありがとうございました。
エアコンなどのない「本物」の日本家屋でしたので、座っているだけで汗が流れましたが、時折抜けていく風がとても気持ちよかったです。
その後、交代となって、応接室やお茶室、2階までの階段や、庭に出てお茶室を眺めたりと、動線に沿って進みながらさまざまな姿を見せる建物を楽しませていただきました。まさに「茶道」が人生の中心であることが建物にはっきり現われているようで大変興味深かったです。