前回のつづき。
洋館のある八幡山公園から北に200mほど行くと、平塚市博物館が所在する文化公園に着いた。入るとすぐに大きな炭水車がついた蒸気機関車があった。
昭和43年6月末まで御殿場線で活躍した、D52型403号蒸気機関車。
正面から。屋根の下で大事に保存されていた。再び走る日も来るのではないか。
左に回りこんでいくと博物館の入口があった。
場所はここ。
入館無料。3階のプラネタリウムのみ一般200円。開館は1976年。
1階は「相模平野と人間」がテーマ。
その自然と歴史について、模型やジオラマも使って紹介されている。
伊勢原市のボタンを押したところ。その手前は相模川。
神奈川県の西側の地形がよく理解できた。
右のオレンジが平塚市で左隣に大磯町、その間の花水川の左の上流が金目川、左岸の北金目台地は塚越古墳や二子塚古墳があった場所。さらに遡ると秦野盆地になる。桜土手古墳群があるところ。
上記の左側は酒匂平野。 やはり山際には古墳が点在する。次の機会に行ってみたいエリア。
塚越古墳のジオラマがあった。左に大山、右の台地上に古墳が築かれ、台地下には水田が拡がり、台地裾に集落がある。
周囲の木が刈られて墳丘が目立つように想定されている。 白っぽく塗られているのは葺石か。実際には葺石(や埴輪)は確認されていない模様。
ジオラマの説明板。
塚越古墳とむら
相模川流域では、2000年前ごろに稲作が始まりました。
4世紀になると、稲作技術も発達し、湿地や谷戸の開発も進んでいたと考えられます。
模型は、当時の北金目の付近を復元したものです。塚越古墳は台地にあり、集落は台地や低地にあります。
当時の人々は、金目川の湿地や谷戸を利用し、また周辺の集落と共同して灌漑工事を行ったり、古墳を築いたりしたものと考えられます。
塚越古墳(前方後方墳)
AD4世紀ごろ全長45m(推定48m) 前方部24m(推定24m) 後方部21m(推定24m)
一応現地の様子を。
測量図を見ると長軸に対して少し曲っているように見える。もとの地山を活かして作られたものか?
郡山の大安場古墳(4世紀後半:前方後方墳・全長83m)がそうだった。
こちらは江戸時代の平塚宿のジオラマ。
模型は文久 2 年(1862)に作られた「宿内軒別畳数坪数書上帳(宿並帳)」をもとに、当時の平塚宿を200分の1で推定復元されている。
1階には移築民家もあった。市内広川にあった旧名主の窪田家住宅の一部。
土間と、板の間に変更されたザシキがあった。
2階は「地域を探る」がテーマ。地引網漁の木造船が目を惹く。
石好きはたまらない(?)コーナー。タモリさんもぜひ。
古墳時代に関わる部分では「生活を語る土器」と「まつりの世界」というコーナーがあった。
古墳時代後期の南原C遺跡や五領ヶ台遺跡から出土した土師器や須恵器。
「まつり」のコーナーの目玉(?)は、真土大塚古墳の出土物。
左の銅鏃、右の水晶製勾玉、上のガラス玉・管玉、下の変形四獣鏡はどれも実物!
現地(に近い移築)へは昨年秋に訪ねた。
万田宮ノ入横穴墓の線刻画の解説。
万田熊之台横穴墓からは見事な装飾品も出土していた。
熊之台の方からは、鉄剣や直刀、刀子、鉄鏃や辻金具も。
平塚市万田は以前訪ねた大磯・高麗山の北側のエリア。機会を見つけて訪ねたい。
古代道が記された興味深いパネルも。
箕輪駅の位置が、さきほど見てきた伊勢原市ではなく、平塚市の渋田川左岸になっていた。
手前の藁家は1月14日に行われるセエトバライのオカリヤ。
道祖神に囲い屋を立て、お飾りを燃した火で団子を焼いて食べて厄払いをする祭りで、岡崎や下吉沢では今も簡単な小屋を作っているとあった。
昭和のくらしコーナーには戦時中の品も。
8月19日まで1階寄贈品コーナーにて「平塚空襲展」も開催中。