墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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埒免(らちめん)古墳 比々多神社元宮 神奈川県伊勢原市三ノ宮

前回のつづき。

比々多神社から北東側へ緩い傾斜を上り、振り返った境内の森。手前はぶどう畑。

 

左手にぶどう畑を見ながら道を進む。

 

すぐに、道に面して、埒免古墳の解説板があった。

埒免(らちめん)古墳
埒免古墳は昭和39年に建物の建設中に発見されました。その際、石室から飾り大刀や鏡、金を貼った馬具など見事な副葬品が出土しました。それらはまさに、相模の最高権力者にふさわしい内容を備えており、伊勢原市指定重要文化財に指定されています。これらは現在、三之宮比々多神社の郷土博物館で目にすることができます。
江戸時代の末に編さんされた「新編相模国風土記稿」によると、この地は、戦国時代以前の三之宮比々多神社があった場所であり、「埒免」と呼ばれていたと記されています。このことから、この古墳も埒免古墳と呼ばれることになったと考えられます。
その後、平成12年から建物の建て替えに伴う発掘調査や平成14年の石室の再調査などで、墳丘、石室の規模、構造が明らかになり、当地域における埒免古墳の存在は古墳時代後期の相模を知る上で、ますます重要性が高くなってきています。
平成17年3月 伊勢原市教育委員会

 

比々多神社から北東に200mほど。

 

古墳は恵泉女学園園芸短期大学(2005年に廃止)の敷地内にある。門は開いていて目の前に別の説明板があったので入らせていただいた。

 

こちらの方が石室について詳しく記されていた。

埒免古墳の横穴式石室
所在地 伊勢原市三ノ宮字宮ノ上1423番地
平成14年2月に伊勢原市教育委員会は、東海大学考古学研究室の協力を得て、この石室の再調査を実施しました。その結果、石室は南東側に入口をもつ横穴式石室と呼ばれる構造で、遺体を納める部屋(玄室)は北東側に張り出した片袖式という形態であることが分かりました。
石室は、幅2m、長さ4.8mの玄室とそれに続く幅1m、長さ4m程の入口部分(羨道)からなります。
石室は巨大な石を組み上げて造られており、玄室の正面奥に使われている最大の石は、縦、横2mを越す大きさです。
現在の石室は半分以上が埋め戻されていますが、本来は周囲の石積みの上に巨大な天井石がのり、内部でも1.7~1.8mの高さがあったと考えられます。
また、これより以前の建物の建て替え時の調査では、石室を覆うマウンドの周囲に巡る大きな溝の跡が見つかっています。それによると埒免古墳の墳丘の大きさは直径40mとなり、石室とともに古墳時代後期としては地域最大の規模となります。
さらに、当古墳の出土資料の内容は、銀装の大刀、金を貼った鞍や轡などの馬具、銅製の鏡といずれも貴重なものばかりです。相模地域の中でこの内容に匹敵する副葬品をもつ古墳といえば、南側に見える尾根上に位置する登尾山古墳以外には見当たりません。つまり、両者には6世紀後半から7世紀にかけて当地域を治めた最高権力者が葬られていると考えられています。
平成17年3月 伊勢原市教育委員会

 

説明板の背後に石室が見えたので石段を上がる。

 

上がっていくと、堂々とした石室があった。

もとは直径40mの円墳で、6世紀後半から7世紀の築造。

 

中へ降りて奥壁を。説明板では縦横2mとあるので、下にも半分埋まっているのだろう。

 

奥壁を背に、羨門の方向をしゃがんで。

 

立ち上がって羨門の先を。ここの標高は82mほど。

大きな石は羨道の天井石か。

もとの墳丘は斜面下から見上げると小山のように大きかったのでは。

 

羨道の入口側まで行って振り返ったところ。中央奥が奥壁。

途中、玄室に入ると右に広くなる片袖式の形式になる。

 

再び玄室に入り、奥壁に向かって右側の側壁。

 

左側はかなり形が変わっているようだった。

 

右上の板石は天井石か。

 

その板石を上から。

 

左側壁の上からみた右側壁。

 

この埒免古墳については、Wikipediaに詳細な解説がある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%92%E5%85%8D%E5%8F%A4%E5%A2%B3


1968年の学校建設工事中に「発見」された古墳だが、工事中に偶然発見されたこともあり出土物は工事関係者に持ち出され、それを比々多神社宮司が努力したことで回収されたのだそう。

そのWikipedia解説の後半に興味深いことが書かれていた。

関東では6世紀後半に全域で前方後円墳の築造が活発化するが、相模では部分的・一時的で規模も大きくはない。しかし副葬品は埒免古墳のようにヤマト王権との密接さが想定される内容で見事なもの。

その理由として、相模では早くからヤマト王権の勢力が浸透していたので、地域の首長が前方後円墳によって関係の強さをアピールする必要がなかったという説、あるいは逆に、相模地が畿内から東国へ向かうメインルートから外れたため、畿内からの直接的な影響力を受けなくなった結果、前方後円墳の築造が行われなくなったとの説があるそうだ。

 

 

比々多神社から埒免古墳へ向かう道に元宮への案内表示があったので、古墳見学後に訪ねてみた。

 

坂を上りつめると小さな祠があった。

 

いわれが書かれていた。 

元宮のいわれ
この高台(旧宮山)は、比々多神社の社殿が建てられていた「埒面」という神聖な場所で神社の境内地です。
かつては周辺一帯1万7千坪を有しておりましたが、室町時代の頃より幾多の戦により神地を失い、大半は民地となっています。
その後、佐野文雄氏が所有されていましたが、昭和55年に返還(奉納)の志を賜り小祠をまつり「比々多神社元宮」と称して鎮座しています。

 

ちなみに埒免の埒は「埒(らち)が明かない」で使われる言葉で、囲いや仕切り、特に馬場の周囲の柵を表すそう。

https://www.weblio.jp/content/%E5%9F%92

 

参拝して振り返ったところ。

 

素晴らしい眺めがあった。標高は105mくらい。

 

相模平野を一望できる。

 

南南東には高麗山。釜口古墳や沢山の横穴墓がある場所。

 

ズームすると江ノ島が。

 

横浜ランドマークタワーも。

 

背後は大山から続く尾根。大山は雲に隠れていた。

 

元宮の隣の敷地には門番のような2本。元の個人宅の名残りか。